中には当人が「批判」と勘違いしている単なる罵倒や、本論とは無関係の人格攻撃などの害悪があるけれども、それをフィルタリングするのも発言者の能力じゃないかなぁ。
私はやっぱり「叩く」という行為は支持できない。私も荒い言葉で批判することを常に抑制できているわけではないけれど、「言葉を選ぶべき」という命題は支持しています。
私は自動車を運転する際の「流れで法定速度超過」に批判的です。現実問題として「流れに乗る方が安全」で、自分も「流れに乗る」としても、「流れで速度超過する方が正しい」という主張には与しない。公然と速度超過を正当化する人は、前後に車がなくても法定速度を超過していることが多い。「本当は法定速度で走るべきなんだけど……」と苦渋の選択として速度超過をするのでなければ、交通安全は遠い夢です。
誰かが法定速度を超過するから、おかしな「流れ」ができるのです。大多数の人が法定速度を守るなら、速度超過がこれほど常態化するわけがない。この手の話題で「流れに乗るのが当然」という立場ばかり強調する人には、私は警戒心を持つようにしています。私の狭い経験からいうと、自制心の欠落を他者に責任転嫁する性格って、他のいろいろな場面でも顔を出すことが多いからです。
罵倒や人格攻撃、敬意の欠落したコメントは、私もやっています。ゼロにはならない。ならないけど、少なくとも現在、私はそのことについて、開き直るつもりはありません。自発的に過去ログを全てチェックして、文言を修正するほどの手間はかけられない。でも、「いいじゃないか」とはいわない。考えない。本来すべきことをできない自分を、恥ずかしく思う。
私は、中島さんの記事は批判されるべき内容だったと思う。思考途中だから云々という主張には賛成しない。それに、ekkenさんのいうように、あれを「思考途中」のメモと解釈する根拠が私には見出せない。でも、批判の内容自体は正しくとも、相手への敬意を欠いたコメントをするのは、間違っています。
今後も、ウェブから罵倒コメントがなくなることはないでしょう。しかし、重要なのは、大多数の人々が「この程度の罵倒はOK」と思っているのか、「こんな罵倒をするのはよくない」と思っているのか、ではないでしょうか。いじめと一緒。いじめはゼロにはならないけど、いじめを「憎むべき悪」と認識する側が圧倒的に多数派となれば、発生率は相当に下がるのです。
いじめがゼロにならない以上、強くなった方がいいのは間違いない。そういう指摘をすること自体を禁止するのは行き過ぎだと思う。でも、まず強調すべきは、いじめの悪です。最初は建前と本音に乖離があってもいいのです。まず「ムカつく相手にこれくらいのことはしていい」と公言できるような環境を叩き潰さなければならない。それさえ実現できれば、本音はいずれ建前に近づいていきます。
飲酒運転が絶対悪になったように、いずれ「流れで速度超過」も絶対悪になると思う。私が生きているうちには無理かもしれませんが、建前をきちんと守り続けるならば、いずれ「スピード違反を軽く考えているドライバーは猛省すべき」が世論になっていくでしょう。
ウェブに横行する罵倒も、「罵倒をゼロにはできないのだから……」という話をするのがいけないわけではないけれど、まず強調すべきは「こんな罵倒をするのは間違っている」ということです。罵倒に負けないメンタル強化の話ばかり目立って、罵倒をしている人への風当たりが弱い社会では、罵倒が減るわけがない。
ただ、罵倒批判のネックは、「誰のことも罵倒しない人は滅多にいない」ということです。悪党はそこを突いて、「そういうお前はどうなんだ」といって正しい批判を潰そうとする。これに負けてはいけない。