趣味Web 小説 2011-11-04

ギリシャの国民投票は「民主主義の終わり」の象徴か

そういえばギリシャが国民投票をやると言い出して、独仏が泡を吹いていたな。

私の理解では、ギリシャには表向き投票に棄権というのがないから、すごいことになるんだろうなとは思う。普通に文明国として考えれば、原案で推移するしかないけど、とんでもない結論が出るかもしれないし、まあ、世界史的に見れば、民主主義の終わりの象徴になるんだろう。これからは、リバタリアン・パターナリズムでないと無理かもしれないな。

いったん失政を招いたって、「民主主義の終わり」にはならない。政治家の首を挿げ替えることで、過去の判断をアッサリ捨てて政策を変更できるのが、民主主義のいいところ。

かつてのドイツや日本は、状況が悪化したときに民主主義を制約し、国民の自由な判断を奪った。ひどい状況を招いたのは民主主義だったが、民主主義が維持されてさえいれば、ああまで悲惨な結果になる前に、政策を変更できたはずだ。

いまのギリシャで、エリート様の知恵で危機を回避しても、ギリシャの国民は政治家に感謝しない。「あいつらのせいでこんなことになった」と怒り続けるだけ。私は、エリート様が国民の生活を慮って民意に反する政策を行うことの繰り返しに、ウンザリしている。それをよしとする考えが、民主主義の危機を招く。

政治が全面的に国民の意志と遊離していいはずがない。国民が判断を誤ったら、その痛みをフィードバックして、新しい判断を促すのが基本線であるべきだ。民主主義とは、失敗をしない制度ではない。失敗をしたら、過去の判断に囚われず、あっさり判断をひっくり返せる身軽さこそ民主主義の神髄だ。1度も失敗しないことを最優先として、民意を無視する政治がまかり通ることこそ、民主主義の死と呼ぶにふさわしい。

ギリシャが無秩序な財政破綻に陥り、ユーロ圏から排除されれば、名目GDPはどれだけ低下するかわからず、実質GDPも経済混乱で大幅に毀損するだろう。何万人も死ぬのかもしれない。つらくとも財政再建に取り組む方がよい。外からは、たしかにそう見える。だがギリシャの国民は、この見方に同意していない。

受動的に国民のいう通りにする政治を称揚しているのではない。政治家は国民を説得しなければならぬ。だが、言葉が届かないとき、最後は国民の声に従うべきだ。そうでなかったら、「国民主権」など名ばかりではないか。

日本国の原則―自由と民主主義を問い直す

大量の新人議員を国会に送り込んでも、ちっとも民意が政治に反映されないのが日本の現状である。政治家が国民の説得に失敗しているので、国民は無茶をいい続ける。無茶だとわかっているから政治家は国民の声をスルーするのだが、説得ができないなら、政治は民意に従って失敗すべきだ。このままでは、日本の民主主義は有名無実である。

私は直接民主主義を標榜しているのではない。そんなのは無理だ。世論というのは大雑把な判断しかしない。具体的に政治を回していくには、どうしたって間接民主主義が必要になる。しかし、間接民主主義が、民意を無視し続けるように作用してはいけない。

私が思うに、「増税は嫌だ、でも将来が不安だ」という民意は、「自分とは無縁に思える政府の事業はやめてしまえ」という主張とセットになってきた。現実には、政府の事業を絞り込んでも将来不安の解消に必要な金額には全く足りないのだが、「いいから、やれ」が国民の声だった。これに対し政治家は、国民を説得するどころか、選挙になると人々の誤解にすり寄り、選挙が終れば民意を無視することを繰り返した。こういうやり方こそ、私は「衆愚政治」と呼びたい。

追記:

ギリシャの国民投票は、話が流れた。

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