メインカルチャーに対する行政の支援については、そろそろ有権者の支持が怪しくなりつつあると思う。文化支援施設である公民館も、過半の市民にとって「自分と(ほとんど)関係ないもの」になって久しい。
交響楽団への支援や、公民館の改築・新設には一部の有権者から厚い支持が寄せられ、反対論には熱がない。しかし、それらへの支出をやめて負債の解消に充てることの是非を住民投票にかけたならば、「支援無用」「むしろ公民館は多すぎる」が民意として出てくるのではないだろうか。
でも実際にはそんな住民投票は行われず、ほとんどの自治体ではメインカルチャーへの支援が続くだろう。一見、その方が、軋轢が少ない。怒る人も、泣き叫ぶ人も現れないから、政治がうまくいっているように見える。だがしかし、政治と民意のズレからくるひずみは、少しずつ蓄積され続けている。決して、消えてなくなったわけではあるまい。サイレント・マジョリティの怒りは、いずれ爆発することになる。
しかし、先の成田市長選でも、今年の小山市議会議員選挙でも、支出を増やすことを訴えた候補が強かった。それは何故かと考えてみると、「自分が我慢しても、どうせ他の誰かが浪費してしまう」という予想が堅いからではないか。誰も浪費せずに借金を減らすのが一番いいが、それは無理なので、だったら自分にとってメリットの大きい浪費を望むのである。
生活振興券や定額給付金も同じ。その政策には反対でも、自分ひとり受け取りを我慢したって、世の中よくならない。だから貰えるものは貰って、適当に消費に回す。本来であれば、「そのお金で学校の耐震工事を進めるべき」などと訴えていた人々は、自主的にお金を寄付して自分の支持する政策を実現すればいいだろうに、有権者たちはバラバラでまとまりがなく、世論調査の結果と現実の行動は、全く一致しないのだった。
世の中にはこういう、放っておくとまとまりにくい意見というのがあって、本当はそこに巨大な票田があるように思えるのだが、実際にはなかなか顕在化しない。
私も、市民の過半が年に1回も利用しない市立図書館のヘビーユーザーなので、過半の市民が「図書館なんて、自分の生活には関係ないよね?」「負債を減らす方が優先だよな」と我に返るのを恐れる一人ではある。が、市民の本音の支持と図書館予算の乖離は、いずれ調整を迫られるはずだし、それは仕方ないとも思う。
現在の延長上にある近未来において市立図書館の分館を全部廃止することになった場合、市役所に文句をいうのは筋違いだろう。図書館の縮小に反対する人々が、各自の身の回りの人々を説得できないなら、それが全て。