日本の大学の経済学部は国際的に評価されていないので、日本の俊英が経済学なんかやっているのは無駄じゃないの、という記事。この議論は、前提を間違えている。himaginaryさんは「ネタ」と断っているけれども、はてブやTwitterなどでの反応を見ると、必ずしもジョークとしては受け取られていないのが気になった。
なぜ日本にたくさん経済学部があるのかといえば、入学希望者がたくさんいるからだ。入学希望者が少ない学部・学科は、どんどん淘汰されてきたのが、日本の大学の歴史である。
比較劣位云々が問題になるのは、弱い産業を保護することの是非が問題になる場合だ。しかし日本の大学の経済学部は、海外の大学の経済学部を商売上のライバルとしていない。また実質的な競争相手である国内の大学の他の学部と比較しても、特別な保護を受けてはいない。理系の学部と比較すれば、むしろ、ないがしろにされているといっていい。
大学自体が被保護産業なので、経済学部も政府の保護下にあるわけだが、経済学部は比較的に保護の度合いが少ない。本当に比較劣位にあるなら、経済学部は今頃、自動的に滅んでいただろう。だが、そうはならなかった。経済学部は、入学希望者獲得競争を勝ち抜いてきたのである。
大学の国際評価など、日本の大学の消費者には、一顧だにされていない。どうでもいい。だから、経済学部への進学を考えている人々は、評価の高い海外の経済学部への進学など、全く考えていない。
日本の大学の経済学部の消費者は、日本で、日本語で、経済学を勉強できることに大きな価値を見出しており、国際ランキングを見て「比較劣位産業だ」とかいうのは、馬鹿げている。海外の経済学部がそんなに素晴らしいなら、日本に進出して日本語で授業をやったらどうか。
言葉と文化の壁によって、ローカルで強い競争力を持つ産業なんてのは、世界中に無数にある。大学の経済学部もそのひとつだった、という話に過ぎない。
同じような話題で、日本の経済学の先生方を貶すのもヘンな話。日本で、日本語で授業を受けたいという学生の需要に応えるのが日本の大学である以上、そこで職にありつけるのは、需要に見合った供給ができる者に限られる。現状は、実現しうる最高の水準に近いのであって、ないものねだりをしても仕方ない。
海外のどれほど優れた経済学の教師であっても、生活拠点を日本へ移し、日本語で授業を行うことができないのであれば、日本の大学で職を得るのは難しい。「私はノーベル賞受賞者だぞ」といっても、何の意味もない。「ノーベル賞受賞者の授業なら衛星中継+英語でもいいから受講したい」「レポートを英語で書くのが苦にならない」なんて学生は、そういう事業が商売として成り立つほどには、存在しないからだ。
学問の話題になると、恐れ多くも消費者様に向かってお説教を始める者が後を絶たないが、英語の壁を乗り越えるメリットが明らかなら、みんな勝手にそうする。説得が必要になるという時点で、「何かおかしい」と思うべきである。
英語の勉強はつらい。そのつらさは、英語が得意になることのメリットに釣り合わないと判断する者が、世間の大多数だ。「つらさ」は主観だから、人によっては英語の勉強は「そんなにつらくない」。だが、そういう人が、「とてもつらい」と思っている人を説得しようとしたって、うまくいくわけがない。
親が子に「英語を勉強しろ」と説教するのは噴飯もの。英語を勉強することにメリットがあるなら、自分が勉強すればいい。他人に苦労させて、自分は苦痛ゼロで間接的なメリットだけ得ようとする、そのムシのよさは、子どもに見透かされている。
いま物覚えの悪い人は、昔から物覚えが悪かったのである。その子どもだって、当然、物覚えが悪いと考えるべきだ。自分が英語を勉強するのは非常に苦痛だが、子どもにとってはそうではない、なんて仮定は、全く間違っている。物覚えがいいなら、漢字テストの点数だって、もうちょっといいに決まってるじゃないか。
ともかくそんなわけで、日本の学生が、日本で、日本語で授業を受けることを望むのは、当人にとってそれがリーズナブルだからだ。その条件のため、授業の質がいくらか落ちてしまうとしても、海外で、英語で授業を受けるよりは、いくらかマシだということだ。
まあね、消費者の啓蒙を試みるのは自由だよ。自由なんだけどね、うまくいくとは思えないな。みなさん、あんまり高飛車なんでね。こんなモノの言い方で、中学生や高校生を啓蒙できると思っているのかなあ、と。たぶん、いいたいことをいってスッキリしたいだけで、結果の方は重視していないのだろうと思う。
ちなみに私は、いいたいことをいってスッキリしたいだけです。