何度も書いてきたことですが、あらためて。
私は、著作物の自由な再利用を推進したい。
しかし、著作権をないがしろにするつもりは全くありません。権利者の意向は、できる限り尊重していきたい。名誉の横取りにあたる「盗用」だけでなく、出典などを表記せず著作者への名誉の分配をサボることや、無断転載によるコピーをコントロールする権利の侵害なども、重大な問題です。
となれば、理想を実現する道は、ひとつしかないでしょう。著作物の自由利用を歓迎する私たち自身が、自由に再利用できるコンテンツをたくさん作っていくのです。
「勝手に再利用するな」という権利者のコンテンツは、きちんと許可を取って、認められた範囲内で再利用しましょう。許可を得られなければ、(基本的には)再利用を諦めるべきです。
「自由に再利用してよい」とされたコンテンツは、気兼ねなく再利用しましょう。再利用の盛り上がりにポジティブな効果があれば、再利用を認める範囲を広げていく権利者は、増えるはずです。きっと何年もかかるでしょうが、それは誰も悲しい思いをせずに問題を解決するため、不可欠なコストだと思います。
権利者の意向が無視される世界では、Creative Commons(CC)は広まりません。どのタイプのCCを付しても、誰もライセンスを気にせず、勝手に再利用する状況では、CCなど空しいからです。私は、こうした状況を変えたい。だから、安直な著作権軽視を批判しつつ、自由利用の素晴らしさを説くのです。
私は、究極的には「著作権より大切なことはたくさんある」と考えています。確信犯として著作権を踏み越えることは、あっていいと思います。しかし、「権利者に文句をいわれたら削除します」なんて人に、いったいどのような確信があるというのか。
安直にルールを破る人がいるから、弱いルールが強いルールで置き換わり、世界は次第に窮屈になっていくのです。このような流れは、私たち一人一人の努力で止めるべきです。
かつては自由利用の価値について否定的な意見が(私の視界の中では)目立っていたので、私は自由利用の意義を説く文章を書いていました。現在は、安直な著作権軽視が目立つ(ように思う)ので、著作権をもっと尊重すべきだと主張する記事が多くなっています。
上記の通り、2つの立場に矛盾はありません。著作者の意思に反する自由利用がいけないのであって、権利者自身が「このコンテンツは自由に再利用していいよ」というなら、みな幸せなはずです。だからまず、私たち自身が、自らの著作物(の一部)を開放していくところからはじめましょう。