ネットの一部では、『踊る大捜査線 THE MOVIE』シリーズは「下手に貶して怒られる」ことがない安全な映画になっている……というのが私の認識。
本作でも織田裕二力は存分に発揮されてるのですが、中でも白眉なのが杭で防火壁を叩くシーンです。
消防隊がバーナーやカッターを持ち出しても開かなかった分厚い防火壁を、木の杭でどーん、どーんと叩いて壊そうするんですよ!
狂気!!!!
もちろん、そんなんじゃ壊れないんですけど、
織田裕二は一心不乱にどーん、どーんとやるんですね。
さらに、画面はスローになって、どーん、どーん。
これ見てると、
うすうすみんなが感じてる
この人、狂ってんじゃないの?
という疑念が確信に変わって、スゴく怖いのですよ!
罪山さんの記事で、やたらはてブ受けしているのが、この部分。本当にそんなシーンなんだろうかと思って、年末の放送を録画していたので、先日、視聴してみた。まあ、身構えていたということもあるんだろうけど、拍子抜けしたというのが率直な感想。
文明の利器を弾き返した防火壁が木の杭で叩いて壊れたら、私でも首を傾げる。でもそうではない。コンクリートの壁でも、ボールをぶつけたら中の人に音が伝わる。昔、団地に暮らしていたとき、壁を一人キャッチボールに使う子がいて、閉口させられたものだった。青島警部補の壁叩きも、警察署内に音を響かせる。それは「諦めていない」という気持ちを中の人々に伝える行為である。
実際には周囲の人はみな心配しているのに、それが当人に伝わらず、絶望して自暴自棄になってしまうということが、しばしばある。孤立した警察署に取り残された人々だって、外の動きが止まってしまったら、精神的に疲弊する。「そんなわけない」と思っても、「見捨てられたんじゃないか」という気持ちが膨らむ。だから、対策が見つかるまでの主観的には長い長い時間、警部補は壁を叩き続けた。
「杭で壁を叩いて何になるんだよ」という呆れ顔は、映画の中でもサラッと登場している。警察署の外では、警部補に同調する人が現れない。だが警察署の中では、壁叩きが「無駄だけど無駄じゃない」ことをしみじみと感じて、みな胸を打たる。
もちろんそれは能力に応じた役割分担であって、みんなが壁を叩いていたら、いつまで経っても防火壁は動かなかった。いったん防火壁が動いてしまえば、「いままで警部補は何をしてたんだ? 壁を叩いてた? バカか、あいつは」となる。その後いろいろあって警部補は褒められるわけだが、壁を叩いていたことは評価の内に入っていないだろう。
別の観点からも少し。
自分の力ではどうにもならない状況に陥ったとき、泣き叫んだり、壁を叩いたり、走り回ったりするのは、人間として自然な行動ではないだろうか。
青島警部補には防火壁しか見えていない。だがノーアイデアである。警部補は自分の関心事にしか取り組まない困った人物で、防火壁と関係ない仕事を与えても役には立たない。だが、この段階では上司にも防火壁対策のアイデアはない。だから警部補は、一時的にフリーである。仕事がなくて宙ぶらりんになっている。
何もできず、そして何もすることがない警部補は、杭で壁を叩く。そんなことで事態が何も変わらないのは、警部補だってわかってるよ。少なくとも、わかってないという描写はない。「無駄」な壁叩きに不満のある人は、体力を温存して仮眠を取る合理的な警部補を見れば満足したのだろうか。
さて、アタマのいい警官たちは、警部補が壁を叩いている間、様々なアイデアを試し続けている。彼らが解決策に辿りつくまで、物語は小休止となる。観客は、イライラする。が、それこそ監督の狙いだろう。
ただでさえ長い映画なのに、なぜあれほど時間を費やして壁を叩き続けるのかといったら、警察署内でお手上げ状態の人々が「無意味」な壁叩きに感動するまでの心の動きを、追体験してもらいたかったからだろう。暗い映画館の中で、身動きできない体勢で、どーん、どーんを聞き続けるうち、いつの間にか胸があったかくなっている……そんな効果を狙ったのだと思う。
とまあ、そんなわけで、罪山さんらがこのシーンを理解できない理由が、私にはむしろわからない。「少なくとも自分は感動しなかった。だから演出は失敗している」といった話なら理解できる。だが罪山さんは、青島警部補は狂っているとか、壁叩きが「スゴく怖い」とかいって、嘲笑してみせた。
壁叩きのシーンを見ての真面目な感想がそれだったというなら、許せる不合理と嘲笑の対象となる不合理の違いを説明してほしい。あるいは、水に落ちた犬を叩く手段として嘲笑を選んだというなら、私は感心しない。「シカトしたのには理由があった」といって反省しないイジメの加害者と、いったい何が違うのか。