日記ブログ風に書かれた小説として、話半分に読んでください。
新入社員の一人が性同一性障害(MtF)の方で、半月後から研修にやってくるため、事前説明があった。
小さな空き部屋が専用更衣室となり、廊下から直接個室に入る形式の「来客用手洗い」が、この新人さんに開放された。
コストがかかる……といえば、それはそうなのだけれど、男性ばかりの会社に女性社員が初めて入ってきたときと、大きな構図は同じだ。
まあ、女性は男性と同じくらいたくさんいるが、性同一性障害の方は人数が少ない。損得勘定で説明するのは困難だ。率直に、「正義のため」とでも考えておくのがよいと思う。なんのために800人もの社員がいるのか。それは、負担を分かち合うためであろう。
「女性として扱う」なら更衣室と手洗いを専用にする必要はないのでは? という疑問の声もあった。しかし性別適合手術を行っていないことから、「部屋を分けるのが穏当」との判断になったそうだ。
もし立て続けにFtMの方が入社すると、当然MtFの方と更衣室を同じにはできないから、「もう部屋が余ってない」ことが問題となる。が、今回だって「対応が可能だから採用した」のではなく、採用を決めてから「当然やらねばならないこと」として対応策を検討したのであって、先に心配することではない……というのが部長の説明だった。
また、性別適合手術をするかどうかは本人が判断することであって、会社としては状態に追随して必要な措置をとるのみである、ともいう。
私には、いちいち納得のいく話だった。
散会後、ある同僚は「受け入れコストも含めて能力なんじゃないのか?」と口にした。
だが、例えば自分が突然の交通事故で歩けなくなったとしたらどうか。この会社は、バリアフリー化の不十分な箇所について、必要な措置をとるだろう。つまり、彼我の差は、現時点でコストが顕在化しているか否かでしかない。
言葉を変えて説明するならば、累計で1万人を超える社員を雇用してきた大企業としては、そもそも確率的に性同一性障害の人もきておかしくなかった。障害に対応するコストをみなでわかちあうのが文明社会の誇りであり、今回、性同一性障害の方の入社を機に様々な対処を行うのは、「そのとき」がくるまで先延ばしにしてきた問題と向き合っているだけのことである。
概要、こんな話をしたが、なお首を傾げているので、少し視点を変えて説明を試みた。
誰もが障害を背負う可能性がある。そして、障碍者を切り捨てる社会を、私たちは望まない。ならば結局、入社を拒否したところで、障害への対応コストは、何らかの形で(例えば税金などを通じて)支払うことになる。どのみち障害への対応コストは負担するのだとすれば、せめて当人が最も能力を発揮できる場で活躍してもらうことが、全員にとって最善ではないだろうか。
この説明への反応に手応えを感じたので、もう少し続けた。
そもそも私自身、会社に損失しか与えていない。いろいろ研究し、開発してきたが、結局はどれも研究開発のコストを回収できなかった。私の給料など、丸損である。かつて億円単位の大損害を生んだ社員だって、何人もいる。私が積み重ねた損失を思えば、たかが更衣室、たかが専用トイレのコストなど、いかほどのものか。
会社というのは、そもそもが、様々なリスクを承知の上で、大勢で集まって利益を出そうという集団だ。プロジェクトを組み、がんばって、しかし市場の壁に跳ね返されることも多い。だが失敗を恐れて挑戦しなかったら、ジリ貧になって滅びてしまう。
そして人の採用こそ、リスクを承知で行う挑戦の最たるものであろう。入社から退社までのトータルで赤字になる人材も、当然いる。これまでのところ、私もそのコースである。それでも、たゆまぬ挑戦を続けて会社は存続してきた。私たちは、そういう場にいるのだ。
私は、こうしたことを経済的な損得で説明するのは、正しくないと感じている。うまくいえないが、不運な人に手を差し伸べないのは、それ自体が不幸なことだ。自尊心を深く傷つける行為である。
「自分は誰かを救える」などと、おこがましいことは考えていない。しかし自分が「この人を助けても利益がないから助けない」などと判断する人間であっていいはずがない。とはいえ、実際にはそういう判断をすることもあるだろう。だが、「それは当然だ」と胸を張るなら、私の精神は死んだも同じである。
「口ではそういう」ことは、ないとはいえない。いや、実際にあった。でもせめて、それを恥じる心が内になければ、生きる甲斐がない。
雑談で「そもそも完全に能力本位で、男女の区別なく……というなら、いろいろ男女で分けている意味が、よくわからない」なんて話も出た。気持ちの問題として、現実的には、分けるのが「当然」とまで強く主張されるのは理解できるけれども、長期的にはそれも乗り越えていくべき不合理な感情論なのでは、という。
具体的には、男女で更衣室を分けているから、MtFの方のために新しい更衣室が必要になったのであって、「性別で更衣室を分けない社会」だったら、更衣室は1つでいい、みたいな話。くりかえすが、これは雑談として、非現実的な仮定を重ねた話である。
私にはとくに考えがないけれども、映画『スターシップ・トゥルーパーズ』がそのような社会を描いていたことを思い出した。作中世界では男女の区別がなく、1つのシャワールームを男女が同時に利用している。寝室も男女別ではなく、ごたまぜだ。率直な感想を書けば、個人的には、とくに違和感がなかった。私が生きている間に日本がそういう社会になるとは全く思えないが、遠い将来には、そうなっても変ではない。
トイレも更衣室も作業服も、男女用はこれまで通り、多目的用をひとつを用意することで諸々解決すると思いました。そのように、グラデーション領域用を用意しておけば、施設選択の問題は解決できているので、全体に対する事前説明はそもそも特別に必要なく、対人関係に付いては、現場の方の人間力に任せればよいではないでしょうか。
社内報では「女性」となっています。つまり性同一性障害について、全体周知はありません。しかし直接に顔を合わせる部署のメンバーには、事前説明が行われています。その理由は、パス度が低い状態で「女性として扱ってほしい」という希望を実現するためには、周囲の理解が必要だからだと思う。また、そうした状況では、「会社の方針を明確に示す」ことも有意義だと思います。
引用した記述は性自認と外見が一致する状態が前提となっています。こちらの状況は、リンク先の新卒時代、変化時代にあたるようですので、方針の策定と説明の意義は大きいと感じます。
いまさらだけど、これもいちおう書きとめておく。
小保方疑惑は多岐にわたるが、「徹底追及した場合の社会への影響」が最も大きかったのは、「博士論文の前説部分の剽窃」だったと思う。世間のバランス感覚が機能したのか、話題は下火になったけれども、仮に徹底追及が実現したならば、社会を揺るがす大事件にもなりかねなかった。
2007年の「高校生の単位履修不足」問題と同様、過去に遡って記録を徹底的に洗っていけば、大勢の人生が狂う。当人に責のない単位不足なら数十年越しの補習授業とかでどうにかなったかもしれないが、論文の剽窃となれば「救済は不正の助長」という意見にも大いに説得力が生じ、学位の剥奪から連鎖してエリートたちの大量失職すら視野に入ってくる。
博士号だけなら、それが就職の要件となっていた人は少なかろう。だが博士だけ厳しく調べて学士は調べないのは不公平だと考えて、学部の卒業論文も精査することになったら、たぶん社会がひっくり返る。数百万人が大学卒業資格を失い、失業者が街にあふれることになったかもしれない。
かつて大卒が高卒と偽って地方自治体に就職していたのがバレて話題になったとき、多くの自治体が学歴の再チェックを行い、懲戒免職を断行した。当時の報道には本来なら受かっていたはずの人が不採用になったわけですから、免職という形でなければ示しがつかない
という当事者の声が記されている。能力ではなく不正が問題、というわけだ。
一般企業でも、大卒枠で内定をもらった人が大学を卒業し損ねた場合、内定は取り消されることが少なくない。それが合法か違法かは知らないが、世間でまかり通っていることである。「じつは卒論に不正があり、卒研の単位は不正取得だったので剥奪とする。結果、単位不足で卒業を認めず」となった場合、大学を卒業できず就職がフイになった人との公平さを考えれば、失職が相当というケースも少なくないと思う。
リンクした記事にもあるが、私の卒論にも怪しい部分がある。
私の研究テーマは10数年継続しているものであり、前説の部分はほぼ毎年同じ内容となっていた。私も先輩の論文からいったん文章をコピーし、日本語の変なところなどを少し修正しただけである。参考文献として先輩の論文を示してはいるが、一字一句変えずに引用するのが誠実な態度だったはずだ。
著作権法を素直に適用すれば、私の卒論の前説部分は剽窃の類である。参考文献として原典を挙げればいいというものではない。教授も指導係の先輩も「ま、これでいい」と判断したわけだが、それで私の罪が軽くなるわけではない。
小保方さんの場合は、原典を示さず、指導教官も寝耳に水だったとされている。が、所詮は「程度の差」であり、五十歩百歩ではないだろうか。少なくとも私自身はそう思うから、小保方疑惑の(一時的な)高まりを見て、「えらいこっちゃ」と震撼した。
なぜ剽窃が行われたのか。理由は大きく3つあると思う。
倫理の不足は、もちろん問題である。ただ、倫理の問題だけがフィーチャーされすぎているのではないか、と思っている。
私の経験・感覚からいっても、論文の前説は、8〜9割方を引用で済ませ、残りの少しだけを自分で書けば足りるものである。ところが私自身、研究室では「前説をほぼ引用で済ませる」ことを認められなかった。初期稿では先輩の論文から「引用」していた箇所を、「リライト」に変えたらOKが出た。むしろ引用の方が誠実だと私は考えていることは前記の通りで、当時からこの指導は疑問だった。
引用では力がつかないとか、本当に理解したことにならないとか、前説は自分で書かねばならない決まりだとか、自分の論文の開幕が引用でいいわけがないとか、あれこれいわれたような記憶があるが、当時も今も私の感想は「馬鹿馬鹿しい」のひとことに尽きる。
『ドラゴンクエストX 目覚めし5つの種族 オンライン』および追加ディスクの『ドラゴンクエストX 眠れる勇者と導きの盟友 オンライン』については、はてなブックマークでも、時々レビューが話題になっていますね。
ベータテストから数えると丸2年を少し過ぎたいま、私も少し感想を書いてみようと思います。(本当は丸2年のタイミングで出したかったけど、書くのに時間がかかりすぎました)
なお、私はDQXベータテストが「初めてのオンラインゲーム体験」でした。それ以前には、オフラインゲームのネット対戦とかも、一切遊んだことがありません。以下、「FF11では」「FF14では」みたいな話が何度か出てきますが、全て最近2年間に体験したり調べたりしたことです。
またドラクエの本編は全作品を遊んでいますが、1993年から2007年までの15年間コンソールゲームから離れていたので、その期間に発売された作品は2008年以降にプレイしました。その関係でDQ6だけはリメイク版しかプレイしていません。他はオリジナルとリメイクの両方をプレイしています。
では、はじめます。
DQXは「オンライン協力プレイにも対応した基本はオフラインのRPG」のではなく、純然たる「オンラインRPG」です。
プレイを始めてすぐに気付くのが、「何をするにも時間がかかる」ということ。ザコ敵相手の戦いに30秒くらいかかることも珍しくなく、特殊なレベル上げでは1戦闘が10分にも及びます。ボス戦もたいへんで、低めのレベルで挑んだりすると、たまに10分を超えてしまうこともあります。
中盤までの必要経験値は過去のドラクエより少ないくらいですが、1回の戦闘時間が長い上に、同時にたくさんの敵が出ないため、たくさん戦闘をしなければなりません。(なお、途中からは1レベルあたりの必要経験値が過去作にない大きな数字になります……)
移動にも時間がかかります。なにせマップが広い。最初の村から次の拠点(中継地点)まで、戦闘抜きで5分以上かかったり。街から街までの移動には、もっと時間がかかります。
ドラクエ伝統の移動呪文ルーラは「ルーラストーン」として登場し、持っているルーラストーンの数しか、飛び先を設定できません(現地の教会で再設定は可能)。ルーラストーンの初期所持数は1個、100時間程度プレイしても4〜5個にしかなりません。一方、設定できる飛び先は増え続けており、既に50箇所を優に越えています(数年後には100箇所に到達しそう)。
ルーラ制限の理由は、ベータ時代のフォーラムで「フィールドの無価値化、無人化を防ぐため」と説明されていました。その他、パーティーを組む動機付けとしても機能しています。何人かで集まればルーラ登録可能地点が大幅に増え、冒険が便利になるわけです。
DQXのモンスターは、その広いマップに、まばらに存在しています。とくにモンスターの少ない場所では、戦闘と戦闘の間隔が30秒を超えてしまうこともあります。1回の戦闘時間も長い上に、戦闘の間隔も長い。レベル上げには、とにかく時間がかかります。
レベル上げもたいへんですが、お金稼ぎもたいへんです。戦闘から得られるゴールドは少ないので、まずはマップのあちこちに落ちているキラキラ(素材)を収拾し、バザー(プレーヤー間のアイテム売買市場)に出品したり、お店に売ったりすることになります。戦闘とは別に、素材収拾の手間がかかるわけです。
またゲームが少し進んでからは、戦闘職とは別に生産の職人になって、生産のミニゲームに挑戦して素材を装備品などに変換できるようになります。生産物はバザーに出品したり、一定量をNPCに納品して特別な報酬を得たりすることができますが、これも戦闘とは全く別個に時間を要します。
ゲームを進めるにあたり、レベルを上げてキャラの能力を高めること、ゴールドを稼いでよい装備品を購入することは、ほぼ必須です。そのいずれも、過去のドラクエと比較すると、大いに時間がかかるわけです。
なぜ、そうなっているのか? DQXは「これまでのドラクエと同じように遊べる」というのが売り文句ではなかったのか?
私はDQXが気に入って遊んでいるのですが、ドラクエファンに無条件でお勧めできるかといったら、決してそうではない。やはり「何をするにも時間がかかる」のは事実であって、この壁を乗り越えるだけの理由を提示できなければ、DQXを勧めるのは無理だと感じています。
なぜDQXは、時間のかかるつくりになっているのか? いろいろ考えながらプレイしてきた私なりの答えは、「自由なマルチプレイには間が必要だから」でした。
オンラインゲームの醍醐味は、人との関わり。どう人と関わらせるかで、オンラインゲームの根幹が決まると思う。さまざまな選択肢がある中で、DQXは「ひとつの世界で大勢が同時にログインして遊ぶ」「ほぼ全編をオンラインで楽しむ」スタイルを採用しました。私が思うに、この時点でプレイ時間の長大化は避け難かったのではないでしょうか。
というのは、実際にDQXでマルチプレイをしてみるとわかるのですが、移動がどうの、戦闘時間がどうのということより、まず「自由なマルチプレイには時間がかかる」のです。
自由なマルチプレイでは、「一緒に遊ぼ〜」と声を掛けてから、「じゃあ何する?」「いま途中かけのを最後までやっちゃっていい?」「職業どうしよっか?」「装備は何がいいかな?」「ルーラストーンはどこが要る?」といったことを、ひとつひとつクリアしていかねばなりません。
もしコンソールゲームのように個々のイベントが1〜2時間で(レベル上げ等も含めて)完了し、どんどん先へ進むゲームデザインにしてしまうと、マルチプレイの非効率は覆い難いものとなってしまいます。自分一人なら2時間で進められるのに、マルチプレイでは30分、1時間余計にかかる、というイメージです。
マルチプレイの「効率」がシングルプレイの2倍以上なら、それでもいいでしょう。しかしDQXは、シングルとマルチになるべく差をつけず、「一人で遊びたいときは一人で遊べる」と「みんなで遊びたいときはみんなで遊べる」を両立させようとしてきました。マルチプレイの「効率」に、極端な色はつけられない。とすると、全体の進行速度をゆっくりにするしかなかったのではないでしょうか。
では他のオンラインゲームもみな、のんびりしたゲーム進行か? 答えはノーです。しかし、マルチプレイのサクサク化は、不自由と直結しています。
DQXにもサクッと遊べるマルチプレイの仕組みはあります。それが『魔法の迷宮』というコンテンツです。オートマッチングでパーティーが編成され、閉じた空間である「迷宮」内のモンスターを全て撃破すると報酬が得られるというもので、5〜20分程度で気軽に楽しめます。魔法の迷宮が手軽に遊べるのは、冒険の目的やパーティー構成などが自動的に決まり、相談や準備の手間がないからです。迷宮の中では転職できず、メンバーチェンジも不可。迷宮をクリアする目的も、方法も限定されており、与えられた条件の中で、まっすぐクリアを目指す。だから早い。
しかしドラクエシリーズの総指揮者である堀井雄二さんは、「DQXのマルチプレイは魔法の迷宮のようなコンテンツだけでよい」とは考えなかった。DQ9と同様、本来DQXが目指すのは、自由なマルチプレイなのです。パーティーを組みながらも、一人は街で買い物、一人は戦闘、一人は職人として生産に勤しみ、そうしながら話を進め、最終的に「よし、**やろう」と意気投合する……そんな遊び方を許容したい。気楽な魔法の迷宮もいいけれど、あくまでもそれはマルチプレイの選択肢の一つとしたい。
だからDQXはこうなった、のではないか。
それはそれとして、「レベル上げにこれほど時間がかかるのってどうなの?」という意見はわかります。でも、「依頼書」が登場するまで、レベル上げは最も万能に近い「パーティーを組む動機付け」でした。
迷宮もクエストも、クリア報酬が得られるのは1日1回まで。毎日必ず仲のいいフレンドがログインしてくるとは限らないから、報酬のおいしいコンテンツはとくに、フレンドを待たずに挑戦するのが常になっていく。すると必然的に、残るコンテンツは趣味的な(=大多数の人にとっては報酬が薄い)ものになっていく。例えば「転生モンスター探し」やチームクエスト各種など。ただ、そうしたコンテンツの多くは、少しずつだけど「レベル上げ」にもつながっていくようになっています。
「レベル上げが終らない」からこそ、いろいろなコンテンツの魅力が少しずつ底上げされている……と私は思うわけです。
報酬の大きなコンテンツに回数制限があるからいけないのでは? という疑問には、答えがあります。報酬のいいコンテンツを回数無制限にしたら、アイテムやゴールドが世界にあふれて際限なくその価値が下がっていき、結局は「報酬が大きい」とは感じられなくなってしまいます。報酬のよいコンテンツに、回数制限は欠かせません。
あるいはDQXの場合、たいていの「強敵とのバトル」において、プレイ時間に5〜15倍の差があっても、意外と一緒に遊べます。DQXには現在14の職業がありますが、1職業を上限近くまで上げ、その他5〜8職業をLv40程度まで上げれば、あとは人の輪を広げることで、たいてい何でもできるのです。それ以上のレベル上げは、自由度を増すためのもの。なので、「レベル上げが終らない」ことはDQXの致命的な問題にはなっていない、と私は認識しています。
とはいえ、複数の職業でコンテンツに参加できる、複数の武器種をマスターし状況に応じて最適なものを選べる、といったことは、やはりゲーム内で大きな意味を持ちます。多くのプレーヤーが「レベル上げはもういいや」とは考えず、長期的には全職業のレベルを上げようとしているのを見るに、「自由」の価値がいかに大きいか、ということを思わずにはいられません。
2つ前の段落で「人の輪を広げることで」と書きました。やはりそれが壁になると思う。現状の14職の内、僧侶以外は「定番のパーティー構成」に席があるとは限りません。ならば時間のない人は僧侶をやればいいのかというと、回復役の僧侶はプレイの難易度が高いといわれていますし、攻撃の方が好きな方も多いでしょう。
どのコンテンツに参加するにせよ、定番の構成でなくてもどこへでも行けるし、実際に勝てますが、やはり定番の構成は(概ね)集合知を反映しており、定番構成を崩す積極的な意味は、ほとんどありません。となると、1つの職業、1つの武器しか鍛えていない場合、4人パーティーの中で自分が少し「お荷物」的なポジションになる場面が、どうしても出てきます。
それでも「フレンドのため」なら、みな(ほとんど)気にせずパーティーを組んで一緒に遊んでくれるわけです。けれども、「いくらか」であれ自分が「お荷物」的なポジションに甘んじる状況が落ち着かない → だから「フレンドに一緒に遊ぼう」といいにくい → 相手の方から誘ってくれるなら喜んでついていくけれど、自分からは誘えない。 → 相手からすると「いつもこっちから誘ってばかり。本当は自分と遊ぶの、嫌なの?」という感じになる → だんだんお誘いがなくなっていく……といった連鎖は、ありがちです。
このあたり、DQXも他のオンラインRPGも変わりません。
まだ「当初、漠然と書こうと思っていたこと」の2割も書けてないんだけど、昨年11月頃に書き始めて、何度も中断して、結局この状態でほぼ2ヶ月止まっているので、もう未完にしようと決めました。
私はDQXが初めてのオンラインゲームで、これが面白かったので、「じゃあ他のゲームはどうなんだろう」と思ったんですね。それでいろんなオンラインRPGを合計200時間くらい遊んでみて、ドラクエが他作品と同じところ、違うところを把握し、「他の作品も知ったうえで、私はDQXがいい」という結論になりました。
なのでホントはここから、DQXのチャットがいかに素晴らしいかみたいなことを書いていくつもりだったんです。ネットで声の大きい層にはとにかく評判が悪いDQXのチャットですが、私は「DQXのチャットは最高だ」と考えています。他作品に慣れちゃった人は、DQXのチャットが実現した世界の楽しみ方をわかってない。わかってないから、そのメリットが「見ても見えない」のではないか。それで、大きなメリットに比して小さいデメリットばかりを、ことさらに言い立てているに過ぎない。
でもこの話、ためしに口語で説明してみたら、15分くらい話しても要領を得ない。そんなの、書き文字にしたらどれほどの分量になって、読むのがどれだけ大変か。現にDQXでは大勢が熱心にチャットしており、活気ある街を実現しているわけであり、もうその事実だけでいいじゃないかと。そう思ったら面倒くさくなってしまって。わからんやつはわからんでよろしい、と。ま、それいったらこの記事自体、意味がないんだけど。既に書いた分は、もったいないから公開しておこうと。
あー、当初の構想では、チャットだけじゃなくて、経済やらビジュアルやら、何でもかんでも書こうと思ってて。でも、これでおしまい。