備忘録

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下記の記事にはてブで1500超のブックマークがついているのを見て、自分の思うところを書き留めておこうと思った。

ちゃんと文字起こしの許可は取っているのか、という点については今回は触れない。

麻生さんの主張を要約すると、次のようになる。

私は、この説明では、全く安心できない。

例えば、「財政破綻したので、国債を踏み倒すと決めた」とする。この場合、預貯金が大打撃を受ける。国内の銀行が、ほぼ全て破綻する。自分には預貯金なんかないから、いい気味だ……と思う人もいるだろうけど、かなりの長期にわたり、経済の混乱による大不況が続き、全員が苦しむことになるだろう。

預貯金から国が借金することについて、麻生さんは左のポッケから右のポッケに入れ替えたのと同じだという。そういう例えも可能だろうが、「どちらも日本のポッケだ」というのは、あまりにも巨視的で生活実態から遊離した議論だ。個人の生活はひとつひとつのポッケに深く結びついている。右のポッケが借金を踏み倒せば、左のポッケは困るのだ。

「政府が全面的に借金を踏み倒すのはヤバい」のは明らかだから、増税やら、資産の処分やらという話になる。しかし政府がその機能を維持するために手放せない資産は相当に多い。増税だって容易でない。「財政破綻は、有権者が納めた税金以上のサービスを求めてきたことの帰結」というのはひとつの道理だが、みなが納得する主張ではない。果たして世情不安を招かない程度の増税でどうにかなるのだろうか。

通貨の発行で国債を償還すれば、当然ながら、かなりのインフレになる。銀行全滅よりはマシだが、一時的な(しかし最低1年は続くであろう)経済の大混乱を思えば、避けたいシナリオである。

麻生さんが説明される通り、日本とギリシャに違いはある。しかしそれは「最悪は回避できる」という話でしかなく、「だから安心してよい」とはならない。

補記:

麻生さんは触れていないが、「経済成長を実現すれば解決」という主張も、ときどき見かける。が、そう単純ではない。

2005年に一度は納得したが、2011年に再検討してみたら、問題点に気付いた。経済成長なき財政再建は実質的に不可能だろうが、経済成長さえ実現すれば自ずと財政再建できると考えるのは誤りだ。

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平成26年6月11日

ほぼ全くリンク先とは関係ない話をする。

1.

フィクションで「箱を開けるか否か」という物語になったとき、多くの場合、作者は「開ける」という選択をする。これが、私にはよくわからない。

現実には、「開けない」ことが多いではないか。フィクションの中でも「常識的な人々」や「多数派」は、「開けない方がいい」派だったりする。にもかかわらず、プロの脚本家たちは、主人公らに「開ける」選択をさせる。その方が客のウケがいいから、だと思う。

日々「箱を開ける話」を歓迎し続けている観客たちの多くが、自分で判断する場面になると「箱を開けようとする人々を抑圧する」側に属し続けるのは、矛盾ではないのか。理解に苦しむ。

2.

フィクションでも現実でも、箱を開ける人たちは必ずしも「これで世界がバラ色に変わる」とはいっていない。彼らは単に無責任であり、やった後がどうなるかわからないことに、勝手に多くの人々を巻き込んで、決断してしまう。

「変えるのが無責任というなら、変えないことの無責任はどうなのだ?」という批判も成り立つが、個人で責任を負えるような話ではないから、民主的な手続きを踏むことにしているのだ。個人にできないことを個人に行わせるための巨大な装置が、その巨大さゆえに鈍重になり、現状維持バイアスが働きがちなのだとしても、「物語の主人公がその瞬間においては全権を振るう」なんてことを正当化できるものか。

初代ガンダムからして、大局に影響しない場所で右往左往しているアムロはともかく、個人の一存でザビ家の人々を順次葬り去り、ジオン軍を敗北に導いていくシャアの独善は目に余る。いったい何様のつもりなのだろうか。最終的にはアムロも大局を左右する立場になってしまい、勝手な人間同士で、大勢を巻き込んだ果し合いを始めてしまう。

Z以降は主役と敵幹部の一騎打ちが世界の命運を変える場面がますます増え、見ていて馬鹿馬鹿しい気持ちになる。もっと卑近なところでは、モビルスーツ(ロボット)をまるで自家用車のように扱う描写がどんどん増えていくのが気に食わない。地球と宇宙に100億を超える人口がいて、高度な文明社会を形成しているという世界観ではなかったのか。そのモビルスーツ(ロボット)ひとつ作って運用するために、どれだけ多くの人のバックアップが必要か、能天気なパイロット様方は想像できないらしい。

宇宙世紀を離れた作品になると、さすがにもう私には全くついていけなくなる。パイロットだけで地上に降りてくるガンダムWも、小さな船ひとつで世界的なテロを敢行し人類を導かんとするガンダムOOも、私の共感を拒絶している。思い上がった人間に実力の裏づけまで与えたら、多くの人命と富が消尽され、世界が荒廃するのは自然の帰結である。

もちろん脚本家は商売で書いているに過ぎない。消費者ウケが悪そうな物語には、プロデューサーがNGを出す。一度は失敗しても、同じ失敗は繰り返すまい。結局、主人公が事実上の独裁者となって世界中の人々の命運を左右する物語こそ、消費者の求めるものだったのだろう。

大衆に迎合し、民主社会の根底を揺るがす思想を喧伝する製作者たちも不愉快だが、彼らの仕事は啓蒙ではないのだから、いっても仕方ないことだとは思う。私がいちばんイラだっているのは、不穏な作品を求める人々だ。危険な物語を歓迎する人々が多数派であるらしい社会の先行きを、私は危ぶむ。

3.

会社員が主人公のドラマだと、「無理っぽい」ことに挑戦する主人公と、足を引っ張ったりネガティブなことばかりいうその他大勢、みたいな構図が用意されることが多い。「箱を開けよ」派なら当然、主人公に共感するわけだろう。ならば現実でも、途方もない夢を掲げた人を応援・支援すればいいものを。

「やらずにあきらめるより、やって失敗する方がいい」みたいな抽象的な標語には大勢が飛びつくが、自分自身にリアルな影響がある話になった途端、大多数が私と同じ側にきてしまう。「あんたら、なんなんだ」と思う。

ま、そうだからこそ、不穏な作品ばかりが人気を集める一方で、社会は安定しているわけだ。

4.

ガンダムだと世界戦争レベルの話になってしまうが、より日常生活に近いところでは、警察ドラマにも納得できないストーリーが多い。

時間の制約とか、諸事情は理解するが、「主人公の確信はよい確信」で、「他の誰かの確信はミステーク」という構図が多用されるのは、どうしたわけか。視聴者からすると「毎回推理を誤る刑事は、毎回真犯人に到達する刑事の主張に素直に従えばいいのに」という気持ちにもなるが、これは危険だ。

客観的には差異がないのに、主人公は正しく、他の誰かは間違っていると、視聴者は確信する。脚本家は視聴者の期待を裏切らない。そんなご都合主義がなぜ歓迎されるのかといえば、多くの視聴者が「自分はたいてい正しいのに、周囲はわかってくれない」というフラストレーションを溜め込んでおり、ドラマを見て主人公に同調することでスッキリしたいからだろう。「自分は正しい」なら「自分と意見が対立する人物は間違っている」わけで、主人公と意見が対立する人物が誤って面目を失うと、これまたスッキリするわけだ。

主人公の成長を描くため、あるいは物語に起伏をつけるため、主人公を失敗させることもある。しかしそれが根本的な反省につながるケースは、ほとんどない。結局、不十分な根拠で捜査を暴走させる悪癖が、止まらない。捜査会議で周囲を説得できなければ、個人で勝手な捜査をする。犯人が口を割らなければ、殴ったり、脅したり。

脚本家は、啓蒙家ではない。視聴者が求めるエンタテインメントを提供するのが仕事だから、俗情に結託した物語を書く。作者に文句をいっても仕方ない。

問題は、視聴者だ。

平成26年6月10日

0.

1.

私は「リベンジ」の方から読んだ。

正さんは「偶数と偶数の和は偶数である」ことを説明しようとして、次のように説明した。
・mは整数である。
・ゆえに2mは偶数である。
・2m+2m=4m=2(2m)
・よって偶数と偶数の和は偶数である。
この説明に対して、進さんは「偶数と偶数の和は偶数である」として「2m+2mを用いるのは間違いだ」とした。進さんの説明が正しいのか、間違っているのかを説明しなさい。

紙屋さんは、無料塾で学習指導のボランティアをされているのだそう。そして、上記の問題の解説を試みて、躓いた。紙屋さんは、ブログで助けを求めた。

だれか教えてほしい。コメント欄かツイッターで返信を。

「教え方のド素人」というのは、冷や汗が出るよな、とつくづく思った。

以下、「リベンジ」をベースに、何点か書く。

2.

そもそも、この問題は難しい。私は「学力底辺層の生徒なら、この問題はパスが妥当」と判断する。頭のいい人は、「ひとつ高い壁を越えたら、それより低い壁は自力で越えられるようになる」と勘違いしがちだ。いや、頭のいい人にとっては、実際そうなのだろう。だが、目の前の生徒にとっては、どうか?

難問への挑戦は、たいてい講師の自己満足だ。その思い上がりは試験の結果に現れる。一緒に難問を解いた生徒なのに、なぜこれほど簡単な問題が解けないのか。もちろん、実力がついていないからだ。なぜ実力がついていないか。それは、時間配分を誤ったために、基礎の鍛錬がおろそかになっていたからだ。

あるいは、そもそも紙屋さんは、これが難問だと思っていないのかもしれない。基礎がわかっていれば解ける、簡単な問題ではないか、と。何年やっても、「これは難問だ」とわからない人がいる。でも紙屋さんはそうではないと思うので、生徒さんの観察を続けてください。

3.

「私ならこの問題をパスする」ので、「学力底辺層にこの問題を教える授業案」は提示しない(できない)。ただ、部分的には「よりよい方法」を示せると思う。基本方針は、次の通り。

注釈。これは簡単な算数や数学の初歩の指導技術であり、高度な内容を授業する方法ではない。私がかつて向き合ったのは、個別指導塾に通う学力底辺層の子どもたちだった。私は彼らと向き合うための授業技術だけを集中的に学んだので、それ以上のことは知らない。

3.まずはここから

「残念。ちょっとちがうな。それはショウ(商)っていうんだよ。和っていうのは足し算の答え。だから『偶数と偶数の和は偶数である』っていうのは、『どんな偶数とどんな偶数を足しても、その足し算の答えは必ず偶数になるっていう意味なんだよ」とぼくは言った。

私なら、こうする。

なるほど……(といいつつ、講師用ノートに大きな字で次のように書く)。

+ 和 足し算の結果
− 差 引き算の結果
× 積 掛け算の結果
÷ 商 割り算の結果

(左手でノートに注意を向けながら)私が読むので、続けて復唱してください(といいつつ右手で「復唱」とノートに書く)。

(ノートの「復唱」の文字を指差しつつ)復唱とは、続けて繰り返し同じことをいうことです。今回は私も一緒に復唱します。

(指で該当する行を順々に指差しながら)
わ、たしざんのけっか はい わ、たしざんのけっか
(生徒は声を出したがらないから、「はい」で弾みをつける。このとき指揮者のように指を振るのもよい。音と視覚の両方でタイミングを取れる。講師も一緒に復唱するのも、生徒が声を出しやすくするための工夫)
(いい間違いがあれば漢字の読みがあやふやな恐れがあるので、「念のためもう一度」「もう一回頑張ろう」「ここは完璧にしたい」などと声を掛けて、同じ行を淡々と繰り返す。生徒が読めていない漢字が明らかならば、その箇所だけとくに復唱する。該当箇所を指差しながら「ここ、わりざん はい わりざん」など。「はい」が復唱の合図として機能するから、一拍おいての「はい」で生徒が自然と復唱してくれる。してくれなかったら、あらためて「復唱しましょう」といって「わりざん はい わりざん」とやる。数十回やれば「はい」の意味が共有されるから、何度でもこのパターンを繰り返す)
(復唱を指示したら、貫徹すること。生徒が声を出さないまま、うやむやのまま終わりにすることは絶対にしない。ただ、小さな声を出している生徒に「声を出さなきゃダメ!」などというと心を閉ざすので、よくよく耳を澄ませて聞く。それでも声が聞こえないときは「私に聞こえる声で」とリクエストを出した。本当に声を出していないことも多いと思うが、その場合は「心の声ではなく」が省略されているという体になる)

さ、ひきざんのけっか はい さ、ひきざんのけっか
せき、かけざんのけっか はい せき、かけざんのけっか
しょう、わりざんのけっか はい しょう、わりざんのけっか

よくできました。では、これを自分のノートに書き写してください。

はい、おつかれさまでした。さて、最初の質問に戻ります。数学で「和」といったら、なんのことですか?

こんなペースでは、いつまで経っても、元の問題にたどり着かない。しかし、ここで躓いている以上は、ここで手を抜いてはいけない。和がわからないなら、「和差積商いずれもわからない」と考えるべきだ。ならば、きちんと4つ全て復習すべきだろう。

私の授業案では、講師の手が忙しい。文字を書いたり、書いた文字を指し示したり、復唱のタイミングを指で示したり。中でも重要なのは、「書く」ことだ。

素人の先生は、自分だけが手を動かし、生徒のやることがない時間を恐れる。実際、そこで授業は少しダレる。しかし少なからぬ人々は、そういう休み休みのペースでしか、ものを考えたり、覚えたりすることはできない。頭のいい人の感覚で、授業を組み立ててはいけない。

本当に覚えてほしいことがあるとき、講師には「時間をかける」覚悟が必要だ。何に時間を使うのか? 講師が話をするのではない。話すのは楽しいことだから、それはむしろ意識して削らねばならない部分だ。大切なのは、言葉を文字にする時間、文字を読む時間、読んだことを理解する時間である。

また上記の授業案には暗黙の前提がいくつかある。

和差積商について指導が必要だと考えてから「よっこらしょ」とノートを開くのではいけない。だんだん、講師自身が、おっくうになる。いつもノートを開いておく。授業の最初から最後までノートが白紙だったら、それはダメな授業だった……と思うことにする。形から自分を追い込むのは、有効な手段である。

4.続いてこちら

4と8を足したらその答えが偶数になるよっていうことを示すときに、
4+8=(2×2)+(2×4)
=2×(2+4)
というのはわかるかな

「わかりますか?」は禁止。私もちょっと気を抜くと使ってしまうのだが、禁止。

私なら、こうする。なお、式の操作には習熟していることが前提になる。また「偶数は2の整数倍であって、例えば0.2は偶数ではない」ことも生徒が理解しているものとする。

(講師用ノートに、次のように書く)

偶数 2の倍数 2×整数と表せる

私が読むので、続けて復唱してください。

ぐうすう にのばいすう にかけるせいすうとあらわせる はい (復唱略)

よくできました(以下、細かい承認とほめ言葉は略)。では、これ(手で指し示す/以下略)を自分のノートに書き写してください。

(生徒が筆写している間に、次の内容を書く。手で上の内容を隠して筆者の邪魔をすることがないよう、十分に離して書くこと)

 8=2×_    8は__
 6=2×_    6は__
 4=2×_    4は__
 2=2×_    2は__
 0=2×_    0は__
−2=2×__  −2は__
−4=2×__  −4は__
−6=2×__  −6は__

ノートに書き写し、下線部を埋めなさい。
(少し数が多いが、これは「偶数」という漢字の練習を兼ねているため。しかし授業のテンポを大きく損ねるようなら数を減らす)
(以下、生徒が全問正解した前提で進める) (講師用ノートはページを簡単に切り離せるものがよい。生徒が筆写中に講師は次のことを書かねばならないが、多くの内容を筆写の邪魔にならないように書くのは、どこかで限界が生じるからだ)
   4+8=2×_+2×_
      =2×(_+_)    4+8は__

ノートに書き写しなさい。
(ひとつずつ指差し確認しつつ、一緒に下線部を埋める)

同じように、以下全てノートに書き写し、下線部を埋めなさい。

   4+6=2×_+2×_
      =2×(_+_)       4+6は__
   4+4=2×_+2×_
      =2×(_+_)       4+4は__
   4+2=2×_+2×_
      =2×(_+_)       4+2は__
   4+0=2×_+2×_
      =2×(_+_)       4+0は__
4+(−2)=2×_+2×(−_)
      =2×{_+(−_)}
      =2×(_−_)    4+(−2)は__
4+(−4)=2×_+2×(−_)
      =2×(_−_)    4+(−4)は__
   4−6=2×_−2×_
      =2×(_−_)       4−6は__

式の操作に問題がないと仮定して、これだけ手間をかける。「あ、わかった」となるための仕掛けは、そう簡単に構築できるものではない。高い段差を均すための補助段作りも、省略することはできない。

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