たいていの Web サイト(以下「サイト」と略す)には「寿命」があり、毎年、たくさんのサイトが閉鎖されています。きちんと死に向き合わずとも生を享受できるのが、この世界です。明るい未来を展望するばかりでサイトの死について考えない方が多いのは、不思議なことではありません。
Web サイトの「閉鎖」は様々な文脈で用いられる言葉ですが、私は次の2項目をもって定義とします。
サーバの都合などにより閲覧不能となるサイトは多々ありますが、作者が更新の継続を望むならば、URI は変化してもサイトは復活します。また更新は止まっても、管理され続けるサイトは長生きします。100年間売れ続けて(少なくとも本文は)一度も改訂されない書籍のように。
更新が止まり、管理が放棄されることによって、ウェブサイトは死出の旅路を歩みはじめます。
さて、Web サイトの閉鎖の仕方には、以下に示す4つのパターンがあります。
いずれも最終的にはパターン1に収束することに注意してください。管理者の消えたサイトは、サーバ管理者にも冷遇されます。早い遅いの差はあれど、いつかみな消えます。
絶版になった書籍が、古書店や図書館の片隅で細々と生き残るように、web.archive.org に屍を拾われる幸運なサイトも存在しますが……。
本稿には、歴史的経緯から「閉鎖する前に考えてほしいこと」という題が付されています。しかし本稿の主題は、コンテンツ保全の奨めです。
コンテンツの削除は、休止や更新終了の際にも、しばしば行われます。それどころか、更新が続いているサイトでさえ、記事の整理は珍しくありません。また、既に述べた通り、閉鎖されたサイトは遠からず消えます。ですから、閉鎖にかこつけてコンテンツ削除の是非を問うのは、おかしなことかもしれません。
それでも、私に限らず多くの方が、閉鎖に絡めてコンテンツの保全を訴えてきました。コンテンツが一夜にして WWW から消え去ったことに愕然とし、嘆き悲しむ人が出るのは、やはり閉鎖の局面が多い。
いきなり全ファイルを削除しないでほしい、といいたいだけなのだと思います。人の命は、いつか尽きます。管理者が物理的に亡くなってしまえば、(基本的には)Web サイトも死にます。結局のところ、大切な情報は自分で保存・管理するしかない。それはわかっています。しかし、日々更新されるサイトをミラーし続けることもまた現実的でないことは、皆さんご存知のはず。
コンテンツの削除は日常茶飯事とはいえ、究極の形で問題が提示されるのがサイトの閉鎖なのです。だから私は閉鎖を語り、コンテンツ保全の奨めを説きます。
以下の文章でとくに断りなく「サイトの閉鎖」と書く場合、管理者によるコンテンツの削除を伴う閉鎖、すなわちパターン1およびパターン2の閉鎖を意味します。そして私の主張は、「閉鎖しない」もしくは「パターン3・4の閉鎖」を求めるものです。
私がサイトの閉鎖についていろいろ考えるきっかけとなった2つの意見をご紹介します。
ともとも#Fake wizardさんの意見は、要旨、次の通りです。
もなみさんの意見は、要旨、次の通りです。
私はともとも#Fake wizardさんに大筋で賛成し、もなみさんの意見に以下の反論を用意しています。
みなさんは、どうお考えになりますか?
「更新不能」「精神的疲労」「攻撃された」「コミュニケーション不能」だから「閉鎖します」という事例は多い。けれども、列挙された事由は、いずれもサイトの閉鎖を必然的に導くものではありません。なぜ作者は、自分が丹精こめて積み上げてきた情報の価値を過小評価するのでしょう。
何の変哲もない身辺雑記にも、それを楽しく読んでいた閲覧者にとっては意味があります。他愛ない掲示板のやり取りにも、価値があるのです。コミュニケーションを当面の目的としていた文章にも、結果として情報価値が生じます。簡単に、この記事には存在意義がない、などと決め付けないでほしい。
管理人はしばしば、あれもこれも無価値なものと思い込みます。そして何の悪気もなくコンテンツを消してしまう。私は悲しみますが、もはや後の祭り。
私はコンテンツの削除を一概には否定しません。作者にとって必要なことならば、仕方がないと思います。
「過去(の一部)を消したい」少なくとも、公開の場からは取り下げたい……この欲求から完全に逃れられる人は、滅多にいないでしょう。
こうしたケースでは、多くの作者にとって、様々な事情を勘案してもコンテンツを削除する以外の選択はありません。
多くの閲覧者にとって、「更新されないサイト」「管理者とのコミュニケーションが取れなくなったサイト」は意義を持ちません。そしてまた、「更新しないなら潔くサイトを消すべきだ」といった主張も存在します。「更新されないコンテンツを残しておいても意味がないので閉鎖します」などといって胸を張る管理人が出てくるのも、やむをえないことではあります。
けれども、読者にもいろいろな人がいて、例えば私は、更新されないサイトのログも残しておいてほしいと思い、他愛もない交流のログも大切なものと考える人間です。だから当サイトでは掲示板の過去ログまで整理・保存しています。これほど極端でなくとも、ログが消えて悲しむ人はそこそこいます(Ex.サイトの死, 閉鎖)。こんな読者もいるよ、ということを知ってほしい。
コンテンツの削除は管理人の特権です。閲覧者には決定権がないし、故あって閉鎖するのは致し方ないことです。もちろん、ふと何の気なしに閉鎖するのも管理人の自由でしょう。ただ、あなたのサイトが消えて、泣く人がいるかもしれないということに、気付いてほしい。安易な閉鎖は、思いとどまってほしいと私は願う。
「古い情報を放置する危険」をコンテンツ削除の理由に挙げる方もいらっしゃいます。なるほど、とは思うのですが、歴史的な資料として存置する手もあります。テキストの一括置換ツールを用いて文書に日付けを入れ、「これは、古い情報ですよ」と示すのは難しいことではありません。
</body>
例えば100枚程度の文書について、上記のコードを以下の通り書き変えるのにかかる時間は数秒に過ぎません。
<ul><li>最終更新:○月×日</li></ul></body>
旧知のサイトで興味深い文章が書かれていたので、ご紹介します。
最初は「サイトの雰囲気を壊さない」という制約だけを持って、リアルでは言えないような些細なことも書ける、そんなスペースが欲しいと思って始めたことでした。でもいつの間にか、自分で作ってしまったイメージや制約で、全然正直な気持ちが書けない窮屈な場所に成り下がってしまいました。
というわけで、コンテンツを減らすのだという。どうやら「古いコンテンツを消せば自由が増大する」らしい。興味深いご意見だと思います。
一貫性を重んじるのはよいとしても、もう少し融通が利かないものでしょうか。「昔といってることが違うじゃないか」と問われたら、「考えが変わったのです」と答えてはいかがでしょう。「紛らわしい」という意見には、「昔から今と同じ考えだったかのように装う方が、よほど紛らわしく、不誠実でしょう」と切り返してはいかが?
自分の中では過去は消えないわけだから、本質的には過去ログを消したところで内面の問題は解決しません。外形を整えて何か自由になった気がするのは、錯覚に過ぎません。もちろん、錯覚には価値があります。それで心が軽くなるなら、たいへん結構なことです。とはいうものの、「なぜ過去ログを消すと気が楽になるのだろう」という問題について、一度は考えてみてほしいのです。
その後の展開がまた興味深かったので書き留めておきます。推測は間違っていたけれど、筋は悪くなかったようです。
なまじ「日記」なんてあるから書きたいと思ってしまって、それが書けなかったらイライラするわけで、いっそ日記なんてやめてしまえと思った
……なるほど、「日記を自サイト上で公開し続ければ、日記を書きたいけれども書けない自分の状態が意識されて、つらい。日記の存在を忘れられれば、楽になれる。だから、日記の公開を停止したい」というロジックには説得力があると思う。
無論、日記の公開を停止しても本質的な問題は解決されません。書けない自分を肯定できるようにならなければ、例えば楽しそうに日記を更新しているサイトを見るだけでも、つらく感じるようになってしまうかもしれない。とはいえ、本質的でない解決策であっても、苦痛の大半を回避できるのなら十分な価値があるといってよいはずです。(痛み止めの薬のようなものだと思うのです。病気を治す薬だけに価値があるわけではない)
「管理するのは面倒だが、データーは公開しておきたい」という場合には、閲覧者の方にミラーサイトの作成・管理を依頼されてはいかがでしょう? 当サイトで公開している宇治IN茶筒のミラーサイトは「海外へ長期間出張するためサイトの管理ができなくなるので著作権を放棄します」という宇治さんの発言を受けて作成されたものです。毎日50~200人くらいの方が訪問され、累計10万PVは閉鎖前の総アクセス数を超えています。
それなりに人気のあるサイトが消えてしまうときに、それをとても悲しく思う人は必ずいます。その人がそのまま何もしないのは、(多くの場合)物理的な理由ではなく、「勝手にそんなことしていいのだろうか」という思いがあるからです。少なくとも、私の場合はそうです。
だから、管理人が金銭的・物理的理由でサイトを閉鎖せざるをえなくなったとき、閲覧者に逆にミラーの構築を依頼すれば、誰かが手を挙げるに違いありません。閉鎖直前、1日平均100人が訪問していた宇治IN茶筒には、ミラーサイトがふたつできました。
「私一人であらゆる閉鎖サイトを引き受ける」という話ではありません。各サイトの管理人は、「いよいよ困ったら各サイトの閲覧者を頼ってみてはどうか」と提案したいのです。サイトがすべて消えてなくなるより、自分がミラーサイトを引き受ける方がいいと考える閲覧者が、きっといるでしょうから。しかしその閲覧者は、管理人に頼られるまでは何もできない。そしてひとり鬱々としているのです。
人を頼るのは申し訳ないと思う人の気持ちは、わかります。けれども、頼りにされずに悲しい思いをする人の気持ちも、よくわかるのです。そして私は、後者により同情的です。
管理人がコンテンツの削除を必要とするならば、それは仕方ないことです。ただ、いろいろな読者がいることは知ってほしい。どんな決断をするにせよ、おそらく誰もが納得する結論はありません。しかし、より多くの人を納得させる努力はあっていいのではないか、そう思うのです。
また、サイトの閉鎖が管理人にとって不本意なものならば、閲覧者の協力を求めることでコンテンツを保全できるかもしれません。ぜひご検討ください。
「しばらく忙しくて更新できなくなるので、潔く閉鎖します」「更新されないサイトを放置するのもお客さんに申し訳ないので閉鎖します」……どちらもけっこう見かけます。なぜ更新できないサイトを閉鎖することが潔いのか。なぜサイトを閉鎖するよりもログを放置することの方が申し訳ないのか。
更新できないこと自体は、サイト閉鎖の必要条件ではありません。更新できないことを理由に閉鎖することを潔いと思ったり、更新できないサイトを放置することを申し訳ないと思ったりする価値観が、更新不能を閉鎖の十分条件とするのです。したがって、「更新できないからといってサイトを閉鎖するのはひどいことだ」という価値観が世間の主流派となれば、サイトの閉鎖はある程度減ることになります。
誰もが納得する答えはありません。ただ、せめて私のような考え方の人もいるということを、知ってほしい。だからこの記事を書きました。
「悩んだ上での閉鎖」は多いのですが、「何とかして更新を続けられないものか」とは悩んでも、「更新できなければ閉鎖」という考え方には何ら疑問も抱いていない方が少なくありません。だから、「悩んだけど閉鎖することにしました」という場合でも、一言、声をかけてみる価値はあると思っています。「目から鱗が落ちました。更新できないからといって、閉鎖する必要はないのですね」という一発大逆転が時々ありますから。
ところで、私は「更新不能」「精神的疲労」「攻撃された」「コミュニケーション不能」などをサイトを閉鎖する必然性のない理由としてあげていますが、乱暴な議論ではあります。
例えばこの備忘録は、私自身のために書かれている私的な文書です。私は自分のために日記を書きたいと昔から思っていたのですが、何度挑戦しても失敗してきました。自分のためだけに日記を書くというのは、つらくてつらくてたまらなかったからです。自分の日記を読み返すのは楽しいのですが、しかし自分さえその楽しみを我慢すれば日記を書かなくてすむわけですから、頑張って書くだけの意欲がわきません。
私が現在の備忘録を継続できているのは、閲覧者がついたからです。楽しみにしてくれる方がいるなら、という気持ちが備忘録を書く原動力となってきました。しかし相変わらず、この備忘録は究極的には私自身のために書かれています。したがって、私自身が備忘録を必要としなくなったとき、更新は止まります。と同時に、公開する理由もなくなります。これまでお世話になったお礼として、しばらくはサーバ代を負担し続けるかもしれませんが、そのうちに感謝の念が薄れて放り出すに違いありません。
私が全ての記事の転載を許可しているのは、こうした危うさを認識しているからでもあります。当サイトのログが WWW から消えて寂しく思う方、備忘録の中にあった情報を有用だと判断し、公開状態を維持するべきだと考える方は、どうぞご自分の責任でそうなさってください、と。じつは既に、過去の備忘録から密かに削除した記事があります。それがどれか、ということもここでは書きたくありませんので伏せますが……。
以上は極端な例ですが、「更新できないサイトを公開し続けるのは嫌だ」という考え方にも、管理人の気持ちの問題として共感するものはあります。その他の「更新不能」「精神的疲労」「攻撃された」「コミュニケーション不能」といった理由もそうです。
サイトの閉鎖を予定されている方に、私は再考を促したい。きっと、閉鎖という結論は変わらないことが多いでしょう。けれども、閉鎖の仕方、そして最後の説明は変わるかもしれません。小さな希望を抱いて、この小文を閉じます。