大島弓子の『バナナブレッドのプディング』は、自分の性をおそれる純粋病の少女をめぐる物語です。
少女が理想とする恋人は「同性愛者の男性」。
たしかにそれなら「安全」です。そして少女は「バナナブレッドのプディングが食べたい」といいます。「バナナ」を切り刻んで、砂糖などをくわえてプディングにしてしまう。非常に象徴的です。
単なる恋愛モノとみればハッピーエンドですが、いろいろ「謎」を残している作品でもあります。
いろんな性別の組みあわせの恋愛がえがかれて、その多くは未解決のまま。とつぜんラストで「まだ性別が決まっていない赤ちゃん」の話が出てきます。ファンのあいだでは、あまりにも有名な「サラの手紙」です。
「男に生まれても、女に生まれても、生きやすいということは、ない」とサラは言う。赤ちゃんは「それでは、生まれるのが怖い」という。すると、サラは、「まあ、生まれてきてごらんなさい。本当にすばらしいものが待っているから」と宣言する。……印象的なシーンです。
すばらしいもの、というのは恋愛や結婚では、ないんです。サラは新婚旅行の途中で、結婚相手がベッドで、となりで寝ています。そのベッドのなかで、サラは、ややうわむきかげんの視線で(細かいところまで象徴的なんですね)「本当にすばらしいものが待っている。わたしも、それがなんだかまだ分からないけれど」と言う。新婚旅行中のサラに「わたしもまだ知らない」といわせることによって、それが恋愛や結婚では、ないことを作者は明示しているわけです。
性的な意味で「おとなだ」とか、それに対抗して「純粋な少女」とか、そういう対立を越えたところで、「本当にすばらしいもの」という話が出てきて、「それは、いったいなんなのか? わたしもまだお目にかかったことは、ないのに、夢のなかで赤ん坊に自信たっぷりに答えていたのです」という、より大きな謎を残してストーリは終結する……
別の観点からすれば、少女の性という難しいテーマにまっこうからいどんでいる作品です。萩尾望都のことばを借りれば、「少女の微妙なこころのひだを、ひとつひとつ精緻にえがいている」。しかも晦渋にならずに、全体としては、謎めいた、甘ずっぱいかおりの、ふしぎな物語。
バナナというのが男性の象徴であるのはそれとして、ブレッド(小麦)は「母なる大地」つまり女性の象徴とも見られます。大島弓子自身が、作品中で「象徴的なプディング」ということばを使っていますが、そういう意味では「バナナブレッド」という合成語はアンドロジニー(男+女)と近いわけで、トランスジェンダー(男女の性別の区別を超越すること)を暗示しているともいえます。
つきなみなことばでいえば、肉体の性別を離れた深い精神愛。もっといえば、バナナブレッドの終着点は「まだ性別が決まっていない、これから生まれる赤ん坊」という“無性”の状態。そこからの再出発。「最高にすばらしいことが待っているから、生まれてきてごらんなさい」……
作品全体を通読すると、結局これは「始まる前の物語」「未来へむかってひらかれた物語」であり、そこに『バナナブレッドのプディング』の深い魅力があるのだろうと思いました。
バナナブレッドに漂うあこがれというのは、無性なるもの、妖精の世界へのあこがれに通じるような気がするのです……
尼僧が言う。「私たちの仕事は不幸な方のために働くことです。だからこの世から不幸な人がいなくなったら私たちの仕事はなくなってしまうので、顧客としてとっておくことが大事です。わかりましたね?」
――桐島いつみ『まっかな人間像』、第1巻より。
このネタは、意外に深い内容を含んでいる。たいていの宗教団体、自助グループは、会員数増加に努め、あるいはメンバの多さを誇り、退会者に対して純真でない。これは何を意味しているか?
信じる者は救われる、と仮定しよう。「救い」というものが完了するなら、救われた者は、もはやそこにいる必要がない。すなわち信者である必要は、なくなる。救いを完了できないなら、その団体は「看板に偽りあり」で、時に有害ですらあろう。図式的にいえば、相手が救済され独立し、去ってゆくことを、救済団体は喜ぶべきなのだが。
この問題の本質は「大乗」が可能なのか、ということだ(「妖精の国からのお知らせ」付録参照)。
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古代ギリシャの某都市。民会で激論が続いていた。子どもがたきびで大やけどを負ったのだ。「そもそも人間が火の神をあやつり、思いのままにするなど、おそれ多いことじゃ」老人が声をあらげた。「それは自然の摂理に、反しておる。人間の身で火力をあやつるなど、危険きわまること」
今は昔、そんな議論があったとは夢のまた夢、若者は無造作に湯をわかし、シャワーを浴び、自動車を走らせていた。