1 : 11 人形からみた『樫の木モック』

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人形からみた『樫の木モック』

2000年6月5日

わたしの「コオロギの精」も気まぐれで、ばかばかしすぎるほどタイムリーに現れる。二回が二回ともだ。「マリーベル」を見ようと思って早めにテレビをつけたら、見るつもりもないのに、やっていやがる。人間の気持ちが分からないただの木の人形。妖精の気まぐれ(?)でつかのまの「命」をふきこまれ人間のように動けるようになるが、ねが人間でないので、やることなすこと、とんちんかん。まじめな話、自閉症者を揶揄するために念入りに作られた悪い冗談じゃないのこれ、と思ってしまった。

「悪い親方」につかまり、しゃべる人形として文字通り見せ物にされ、親方は大儲け。「搾取される封建農奴」のようだが、なんといっても、人形だからなぁ。人権を主張できないなぁ。そのくせ「おじいさんのために働く。自分の働いたぶんの分け前をくれ」なんて親方と労働交渉するし。親方が「分かった」といえば単純に信じるし。まぁ人形だから脳が足りないのは仕方ないが、「やめとけ」とアドバイスする変なコオロギの精のほうが正しいと思っちゃったよ。酔った親方が「分け前などやる気はない」というと、こんどは、それを100%信じるし。こっちは本来の脚本意図、視聴者も「あれは悪い親方」と考えてもらう、という設定なのだろうが、それにしても親方が眠ってるすきに、見せ物で儲けたカネを全額かっぱらおうというのは大胆不敵。親方だって、会場使用料とか人件費、光熱水道費……見せ物小屋を運営してゆくには、それなりの経費もかかるわけで。ぜんぶ盗むのは、やっぱやばいっしょ。

親方に見つかり「泥棒め」と追いかけられてやんの。そりゃ泥棒だよ、ほんとに。でもって、さっさと逃げればいいのに、ほかの人形(モックのような「こころ」を持っていないし動けない)までつれだすことに執着……この、緊急事態、さっさと逃げるべきときに、わけのわからない規則にこだわるところが、痛かった。

でもって、あれこれあって、結局ひとりで逃げました。「人形なんてイヤだ。ぼく人間になりたいよ」と嘆くと、残酷にして親切な妖精があらわれ、「わたしには、そのちからは、ないが、あなたが、『優しい気持ち』を持てば人間になれますよ」などと、こころを惑わすことを言う。我ながら妖精ってなんて残酷なんだろう。我ながらモックってなんてアホなんだろう。ガキのころ、樫の木モックに似ていると言われたことを、あれこれ思い出してしまった。いわく「超あたってたじゃん、それ。すごい洞察力!」

ディズニーの「ピノキオ」とかよりおもしろいというか訴えると思った。技術的には比較にならないが。で、ちなみに昨夜は映画「橋のない川」も見たのだが、……原作はいいのかもしれないけど、映画としては、退屈だった。テーマは重要だがテーマの扱い方がへたでアピールしない……っていうか、たんたんとえがく、という手法のつもりなんだろうけど不成功。というのが個人的感想。それにひきかえ『樫の木モック』は名作だ! だが、ひどい名作だ。まぁ感動の最終回がどうなるかもだいたい想像つくよ。だけど、やっぱり人形は人間には、なれないんだ。それが妖精の現実。人間より優しすぎることは可能かもしれないが、適切さを越えた「優しさ」は、もはや非人道的な暴力だ。この意見に同意する者は少ないし、これからも少ないだろうということは分かっているが。

追記:この物語への根元的疑問、それは、なぜ人形が人間になろうと努力しなければいけないのか、ということ、人形より人間のほうがすぐれているというあなたがたの無意識の大前提、その封建領主的傲慢さ、なのだ。人間たちは、自分たちがこの話に共感することで、じつは「悪い親方」の無邪気な立場に立っていることに気づかない。

追記2:モックが引き裂かれるのは人形なのに人間世界にいるという異質性ゆえ。「人形の国」でなら、本来の自分のまま、平和に悩みなく暮らせる。



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