1 : 12 ジロドゥ: オンディーヌ

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妖精と人間の出会い ~ 妖精からみた世界

2000年7月17日

「妖精」自身にとっての、実存的な不安

現在(西暦2000年)の我々の社会で、人間がふつうにイメージする「妖精」は、たぶん、「きゃしゃでデリケートな美しい少女」だろう。いずれにせよ、「妖精」は、人間が考えイメージする対象であり客体であって、主体としての妖精自身の感じ方というものは通常、問題にならない。

そのような「妖精」とハンサムな「人間の男性」との恋愛は、もちろん、人間からみて「美しい」ストーリーだろう。けれど、そういったイメージは、健常な人間の幻想だ。現実の妖精では、ない。実際の妖精のふるまいは、健常な人間には、幻想することさえできない。

このテーマがわたしにとって重要だったのは、もちろん、「妖精」が「自閉症者」と等価だからだが、わたしがそのことに気づいたのは比較的、最近になってのことだ。高校時代、本質の不明な、しかし、あらがいがたい強いちからでわたしをとらえたのは、吉原幸子の詩集「オンディーヌ」であり、大島弓子の「バナナブレッドのプディング」「綿の国星」だった。そして、アンナ・カヴァンの「氷」。――これらは、一見無関係な、なんの脈絡もない作品名の列挙に見える。しかし、《透きとおった世界》と物理的な《現実世界》との接触という観点からみると、どれも、テーマは「妖精と現実の接触」だった。なんならトールキンの「指輪物語」や中山星香の「妖精国の騎士」を加えてもいい。

のちに「自閉症児エリーの記録」で、エリーが妖精と呼ばれるのを知り、ドナ・ウィリアムズが「自閉症だったわたしへ」のなかで自分は妖精だと答えるのを読んだとき、実存的な激しい不安におそわれた。ドナ・ウィリアムズが存在する、ということは、この子(わたし自身のこと)の存在には意味がないということを示唆しているように感じられた。もしドナ・ウィリアムズと自分が現実に出会えば、どちらか一方が消えてしまうだろうという妄想にかられた。つい二三日前、友人の森口奈緒美――「変光星 ある自閉症者の少女期の回想」の著者――から、来月8月にドナが来日すると聞かされたときも、漠然とした恐怖感を覚えた。モデムを使ってインターネットに接続できるパソコンがあるとして、すでに一台のモデムが見いだされ、取り付けられたなら、2台めのモデムには存在意義がない――モデムは一台あればたくさんなのだ。ちょうどそんな感じ。この感覚が混乱したものであることは分かっているが、この子自身にとっては、切実な不安感だった。

ドナ・ウィリアムズは、その著書で主体としての妖精自身の感じ方、妖精からみた世界を提示し、それが、すでに人間の世界観に新しい局面をつけくわえつつあった。わたしたちは、知ってもらいたいとどこかで切望しつつも、知られたくない、見えない存在でいたい、と渇望している。この矛盾は、いろいろなレベルで動揺の原因になる。高機能自閉症者が、しばしば、人間としての自分を三人称で呼び(例えば「この子は」というふうに)、本来の自分自身である「わたし」とは方向性の違う別の存在であるかのように語りたがるのは、そのためかもしれない。「わたしは語りたいのだが、この子は無視されたい」というふうに。

「森のなかの少女」

水の妖精オンディーヌが人間からみてふう変わりな――ある意味で魅力的ではあるが、人間の社交界においては迷惑な――存在であるように、わたし自身も、おかしな存在だった。おかしな存在は、遠くから「きれい」な部分だけを見るなら興味深く魅力的かもしれないが、その現実に巻き込まれる人々にとっては必ずしもそうでは、ない。

いずれにせよ、「少女」は、どことも知れぬ深い森のなかにひとりでいた。同時期の作品「だれもいない水車小屋」は、まさに、「まだ存在しなかったわたし」の心象風景だった。


妖精と人間の出会い ~ ジロドゥのオンディーヌ

2000年7月17日

騎士ハンスは、水の妖精オンディーヌを妻にする。人間と妖精が結ばれるにあたって、妖精界は残酷な契約を要求する:もしハンスが妖精を裏切ったなら、ハンスは死ぬ、というのだ。やがてハンスは、人間の常識を理解しない妖精オンディーヌにうんざりし、人間の女に浮気をする。オンディーヌは、浮気をした夫ハンスを助けるために、「自分が先にハンスを裏切ったのだ。だから自分が裏切られたのではない」と嘘をつく。

ここで、ドラマは、ふたつの要素を見せる。ひとつは、妖精的にはつまらないが人間的には感動的な「愛のドラマ」。すなわち、ハンスは、妖精オンディーヌの愛の純粋さ、ひたむきさに気づき、ようやく真実の愛(笑)に目覚める。ハンスはオンディーヌと愛を語りあうが、残された時間は、ほとんどない。契約に従って、ハンスには死が訪れつつある。残された数分の時間をふたりは最大限に活用するしかない……このテイストはアンナ・カヴァンの「氷」にも似ている。

第二は、妖精の冷たさ。ハンスが死ぬと同時に、オンディーヌは人間世界での記憶を失う。数秒前には切実に愛を語りあったハンスの死体を眺めて「この人、動かないけど、どうかしたの?」と首をかしげる。いかにも妖精的だ。しかも、オンディーヌは、こうなることを予期していた……記憶を失うことを予想しつつも、ハンスを失ったあとでもハンスの思い出の品(実際には記憶を失ってしまうので「思い出」は、ないのだが)のまわりで暮らせるように、ひそかに、ハンスの家具などを妖精の世界へあらかじめ運び込んでいた。

「わたしは、もうすぐあなたに関する記憶を失ってしまうが、記憶を失っても、あなたへの愛のなかに生きつづける」……初めてジロドゥのこの戯曲を読んだとき、このモチーフには強い感銘を受けた。いま読み直してみると、もっと深い意味での伏線に気づく。つまり、妖精オンディーヌは、いつかは人間ハンスが裏切り、関係が破綻することを予想して準備している……いうなれば、人間ハンスを初めから信じていなかった、信じていない相手を永遠の愛の対象にした。もっといえば、文字通りに、オンディーヌが先に裏切ったのだ。人間を信じなかったのだ。

ジロドゥの「オンディーヌ」は、200ページにも満たない短い戯曲で、白水社の『ジロドゥ戯曲全集』第5巻に収録されている(絶版だが、インターネット上で検索すれば2000円くらいで入手できる)。フーケの妖精物語「ウンディーネ 水妖記」(岩波文庫、こちらは簡単に手に入る)を元にしているようだが、個人的には、ウンディーネよりオンディーヌのほうが好きだ。ウンディーネの「わたしは涙で人を殺しました」というモチーフは、妖精的というより人間的だ――純粋であるあまり人間に対して「冷酷」である妖精、という部分は同じだけれど。そして、ジロドゥの「オンディーヌ」をもとに、吉原幸子が詩集「オンディーヌ」を発表している。じつは、わたしが最初に出会ったのは吉原幸子のオンディーヌで、高校時代のことだった。今でもあちこちそらんじられるくらい、当時は、吉原の詩に執着した。

ジロドゥのオンディーヌの次の場面は、人間の価値観を理解しない妖精の性質が洒脱にえがかれていて、好きだ。

騎士
ぼくは、王様から三番目の席で、銀のフォークを使う権利があるはずだ。
侍従
以前はそうだった。首席で、金のフォークを使ってもいいところだった……
オンディーヌ
そんなこと、どうだってかまやあしないじゃないの! あたし、お料理みたのよ、牛が四頭だわ、みんなにゆきわたるだけ十分あるわ。
(笑い声)
騎士
なにがおかしいのだ、ベルトラム。
詩人
心がうきうきしてくると、笑いたくなる。


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