ヤパンという国をご存じだろうか? 太平洋のいちばん隅のほうにある小さな島国。住民は野蛮で陰湿、竹やりをもって大国に卑劣な奇襲攻撃をしかけたこともあるが、もちろん近代兵器による反撃であっけなく敗退、全面降伏したのちは西側文化の奴隷となった。住民は島の土着語を話すが、語彙の三割は欧米語の借用と言われ、町の看板などいたるところに英語があふれる。敗戦国の悲哀だ。
このヤパンという国では、いまだにひどい男性差別がなくならず、国際社会の猛反発をまねいている。
背景にあるのはジュ教と呼ばれる土着の原始宗教。ジュ教では「男女七歳にして席を同じうせず」という教義があり、この宗教原理にもとづき、アパルトヘイト(男性隔離政策)が実施されている。一般に、男性は、女性のからだに触れることもゆるされない。女性が男性の背中を叩いたりするのは容認されるが、男性がうかつに女性の肩などに手を触れようものなら、「触らないでよ、けがらわしい!」とののしられる。「けがれ」という宗教的観念に支配されているのだ。トイレも女性用と男性用に区別され、女性用は広々として大きな化粧台があったりするが、男性用は薄汚く狭苦しい。女性用のトイレが混んでいるとき、女性は、「汚いけどまあいいや」といって男性用のトイレを使うこともある。しかし逆は絶対に許されない。
男性と女性を意識的に区別するアパルトヘイトは極めて徹底している。赤ん坊は生まれた瞬間から男性か女性かに区別され、「コセキ」(出生証明書)にこの区別が明記される。男性と女性の区別は、ヤパンの土着語で「セーベツ」と呼ばれ、生まれたときに決められたセーベツは一生、変えることができない。子ども時代から、学校において、男性と女性で区別した制服の着用を義務づけられていることが多い。
戦時にも、女性は兵役を免除され、男性だけが前戦に出る。夫婦でも、一般に自動車の運転や力仕事といった肉体労働は夫がすべてこなし、収入を得るために働きに出るのも夫の役目と考えられている。他方、女性の地位は高い。家のなかで子どもの相手をしながらテレビを見て、おしゃれや美容、料理を楽しむ。のみならず、なにかにつけ、男性は女性に贈り物をしなければならない。女性は、まさに貴族階級だ。もちろん好みによっては、女性が男性階級の仕事についてもかまわない。
差別は服装の細部にまで及ぶ。男性はズボンの着用が義務づけられ、夏でもスカートをはくことが許されない。会社では、男性だけが真夏でもネクタイ着用を義務づけられていることも多い。女性が好みに応じてメンズを着たりボーイッシュな言動をとることは構わないが、その逆はゆるされない。
各国の人権保護団体は、このような徹底した男性差別について、ヤパン政府に何度も改善を求めているが、ヤパンでは「これは、この島の文化」として、とりあおうとしない。男性差別が社会制度として当然のことと考えられているため、とうのヤパン男性自身が、自分たちの地位の低さを認識していない。それほど男性の権利に関する意識が低い。
ヤパンの宗教では、「男性は女性のためにつくし、戦わねばならない」とされる。ヤパンで作られたゲームを見ても、女性は美しい衣服をまとった「お姫様」、お姫様のために戦うのは男性の役目と決まっている。
ヤパンの若い女性は数人の男性奴隷を使いこなすのがふつうだ。女性に奉仕する男性奴隷は、いくつかの種類に分けられている。ヤパンの土着語でアッシー(自動車の運転専門)、ミツグ(贈り物を持ってこさせる専用)、ベンリ(雑役係)など呼ばれるのがそれだ。奴隷たちは主人の顔色をうかがい、主人の機嫌をとるのに必死だ。
ヤパンの女性は賢い。「男はいいよね。女って損」というまやかしを繰り返し、男性たちが「じつは男性のほうが地位が高いのだ」と信じるまでに、男性奴隷を洗脳する。この島国では、以前にも「士農工商」という身分制度があり、農民は、ほかの一般人より身分が高いとされていた。しかし、年貢のとりたてを受け搾取されていたのは、その「身分の高い」農民たちなのだ。
歴史の教える通り、わたしたちも、かつては男性と女性を文化的、社会的に区別していた。しかし現在では、そのような区別がほとんど無意味であることは一般常識となり、自分の性染色体が XX か XY か調べたことがない人も多いだろう。男性解放運動、女性解放運動、部落解放運動などは、前世紀にその役目を終了し、運動団体も解散した。
性別や血液型や肌の色といった人間の本質と何ら関係ないことをいまだに重要視するヤパンの宗教的頑迷にどう対処するか、宗教の自由のたてまえもあって、なかなか難しい問題だ。人権保護団体のなかには、アパルトヘイトを続けるヤパンへの厳しい制裁措置を主張するものもある。しかしヤパンの住民は、そもそも男性差別が存在することそれ自体を自覚していないのであるから、制裁措置は、どうか。どんな悪いことをしたのか自覚していない子どもに罰だけ与えても効果があるのだろうか。
専門家のなかには「文化的自決」を説く者もある。ヤパン古来の文化的伝統として、男性女性による役割分担を、おおらかな気持ちで認めようというのだ。たしかに、性のような人間の外形を透明化した、わたしたちの価値観をみだりに押しつけるのは、傲慢かもしれない。ヤパンの男性たちは差別されていることに気づかず、あまつさえ男性のほうが地位が高いと信じて幸せに浸っているのだから、その幻想を無理に破壊することもないのでは、ないか。
とはいえ、ヤパンでも、うざったい男性解放運動や女性解放運動が早くなくなってほしいものだ。解放運動があるうちは解放は未完成であり、解放が完了すれば運動も不要になる。解放運動とは、その運動の存在意義の否定をめざす運動なのだ。今では「水平社運動」など知らない人が多いだろう。それでこそ水平社運動はみのり多いものだったと言える。ひるがえって、何百年も「解放、解放」と叫びつづけているような運動は、ちっとも成功していない運動であって、実効という観点からは無意味な運動と言える。
フェミニズム運動など、早くなくなってほしいものだ。過渡期の人間なら逆説的な意見だと思っただろうが、わたしたちは、これを当然のことと理解できる。「女性論・男性論」「バラモン論・シュードラ論」などは、わたしたちにとって、退屈な人間史の授業でしかないのだから(人間族の歴史に興味があるかたは、退屈と思わないだろうが)。
この記事は、妖精現実の感覚をアピールするものですが、それと同時に、チャドル問題に関して、つねづね感じていることをパロディーの形で表現しています。チャドルというのは、イスラム文化圏の民族衣装で、宗教的に、女性にチャドル着用を義務づけている地域が多いのです。キリスト教圏では、チャドルが「女性差別」の象徴のように言われ、アメリカなどのフェミニスト団体のイスラム批判でいつもうるさく言われます。
しかし、妖精の視点からみると、日本人男性のズボンやネクタイも、ほとんど同じことなのです。ズボン着用の「義務づけ」が男性差別だからズボンを禁止せよ、と言われても、日本のみなさんは、「はぁ?」と思うだけでしょう。イスラム側からみた「チャドル批判」には、そういう面があると思うのです。つまり、イスラムのなかに入りこんだつもりになって、イスラムのなかから見るとどう見えるのか、というイントリンシックな(内側からみる)視点が必要なのです。「女性がチャドルでからだを覆わなければいけないなんて、おかしい」と簡単に割りきれるかどうか。「男性がミニスカートをはくなんて、おかしい」か、「夏でも男性はスカートをはけないなんて、おかしい」か。いろいろ考えてみてください。
進歩的な哲学者プラトンも、奴隷制度を当たり前のものと考えているところなど、興味ぶかいものです。もちろん、だからといってプラトンの偉大さ全体が損なわれるわけでは、ありませんが。
なお、この記事は、あくまで妖精の透明な視点にもとづくものですから、「なに言ってるの、女だって、これこれこういう社会的差別を受けてるのよ。きい」といった筋違いの反論は、ご遠慮ください。男性女性という意識そのものが消滅した地平を提示しているのであって、過渡期における男性女性それぞれの得失を論じているのでは、ないからです。