1 : 15 核融合による原子力発電

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高校リンチ殺人事件、主犯は朝日新聞の読者

2000年8月19日

朝食を食べながら読むほどの熱中

滋賀県湖南町の学内リンチ殺人事件で、殺人などの疑いで逮捕された高校生の部屋から、大量の朝日新聞が見つかった。

高校生は日常的に朝日新聞を購読していたと見られる。警察の調べに対しても朝日新聞を読みいろいろな凶悪事件やその手口に関心があったことを認める供述をしているという。また高校生が事件の朝にも自宅で朝日新聞を読んでいることから、捜査本部は朝日新聞と事件との関連を調べている。


被爆・敗戦国の原子力ヒステリー

2000年8月21日

「クリーンな太陽に倣(なら)おう」

どうも「原子力はクリーンなエネルギー」と主張しても、冗談を言っているのだと思う人が少なくないようだ。日本人の場合、「広島と長島で使われた原子爆弾は悲惨きわまる」という話を、繰り返し聞かされた結果、原子力というと良くないもの、と、すりこまれていると解釈できる。ほかの地域の人々も「あれは人類の犯したあやまちである」といった罪悪感がどこかにあるのかもしれない。

それにしても、反原発団体などがよく「原子力は危険だから太陽熱のようなクリーンエネルギーを使おう」と言っているのは、あまりに非論理的で、頭がおかしいとしか思えない。太陽放射が原子核反応によって生成されていることは、現在の標準モデルにおける常識だ。太陽の光、月の光、夜空にきらめく星々……ないしは樹木の成長も、すべて原子力にもとづいている。もちろん気温や気流、風力エネルギーも、もとをただせば太陽熱、つまり原子力だ。ちなみに石油や石炭も大昔に植物がたくわえた太陽の原子力を利用しているのである。原子力こそ、宇宙における、最も基本的なエネルギーであって、本質的には、質量をエネルギーに変換しない限り、どこからもエネルギーは取り出せない。

もちろん、現在、用いられている原子炉は核分裂反応を利用しているのであって、太陽熱のもとになっていると考えられる核融合反応とは異なる点が多い。だから、原発反対と叫ぶ人と話すときは、まず「核融合炉もダメなのですか」と確認する必要がある。ところが、相手は「核反応というのは、すべて危険で、なぜなら放射能汚染なのだ」といったいい加減な(間違った)知識しかないことが多く、話は平行線に終わる。反対するなら「どの範囲の対象に、なぜ反対するのか」を、はっきり自覚してほしい。これは反捕鯨団体にも言えることだ(例えばイルカはいいのか……もしいいならクジラの赤ちゃんは、とっていいことになる)。

森の生活は「エコロジー」か?

例えば、火力で走るガソリン自動車から大気中に放出される大量の汚染物質。それだけを考えても、原子力以前のエネルギーは、好ましいものとは思えない。ひるがえって、原子力は、生態系への影響が非常に少ない。他方、ガソリン自動車が起こす事故で毎日多数の死傷者が発生する。原子力発電所の事故で死傷者が出ることもたまには、あるだろうが、実際にはゼロに近い。少なくとも適切にコントロールされた施設においては事実上ゼロだろう。まれに事故が起きるにせよ、定められた手順を大幅に逸脱した扱いが原因となる人災であることが多いように思う。適切な手順を守らなければ、湯を沸かしたやかんですら危険なのであるが、これは、やかんそのものが危険だということでは、ない。

原子力が嫌いなら、電気を使うのも、太陽にあたるのも、やめればいいとも言えるが、東京電力のエリアでいえば、すでに電力の約半分は原子力発電によって作られている。反原発の人は、この部分を火力などに置き換えたいのだろうか? 原子力の利用をやめ火力に置き換えたら、大気汚染がさらにひどくなる。むしろ、環境のためには早く100%原子力にするべきなのだ。

昔ながらの生活に戻るべきだという人もいる。それも一理ある。森のなかの丸太小屋に住み、木を切ってたきぎにして暮らすのは楽しいかもしれない。しかし、そのようなぜいたくをするには、人口の一人一人が非常に大量の森林を破壊し続けなければならない。これは人口が激減しない限り非現実的だ。

原子力発電所より安全な場所?

前にも別なところで書いたが、できれば原子力発電所のなかに住みたいと思うことがある。

水害の心配もないし、震災級の地震にもたえられる。外部の者が勝手に侵入することがなく、ダンプカーなどが飛び込んでくることもない。……こんな安全な場所は、なかなかほかには、ないだろう。軍事施設も平時には非常にセキュアだろうが、攻撃を受ける場合には、まっさきに目標になるのであまり安全とは思えない。もちろん全面戦争になれば原子力発電所も攻撃されるかもしれないが、全面戦争になれば、どこにいようが安全なわけない。

放射性の燃料・廃棄物がうざいのは当然

原子核反応というのは、一般的にいうならば、原子の種類が変化するような反応というべきだろう。例えば、水を水素と酸素に電気分解するのは化学反応であって、反応の前後で水素原子、酸素原子は変化しない。見かけ上、原子のつながり方が変わっただけだ。これに反して、ふたつの水素原子からヘリウム原子を作るようなのが核反応だ。この場合、陽子や中性子レベルでは変化はないのだが、それらの結合が変わって、原子レベルで変化が生じている。

今の例では、反応前は水素(ジュウテリウム)、反応後の生成物はヘリウムであって、いわゆる放射性物質は関係ない。一般には核反応といってもこのようにクリーンなのであって、現在、放射性の物質を燃料にしたり、反応後に放射性物質ができたりするのは、原子力の利用法が未熟だからにすぎない。もちろん、処理に困るような「灰」が生じるのは、好ましいことでは、ない。もっと効率良く、もっとクリーンな原子力利用を追求するのは、当然のことだ。大昔は木炭を使っていたのが、のちに石油に切り替わったのと同じだ。次世代エネルギーの有力候補である核融合は、最も簡単には、ふたつの水素(ジュウテリウム=重水素)がヘリウムに変換される核反応であって、ウランやプルトニウムを扱う場合のような放射能の危険性はない。

原理

ところで、どうして、原子核からエネルギーが取り出せるのだろうか。

現在の標準モデルでは、「アインシュタインの教え」によって、質量がエネルギーに変換されると考える(この仮説は、観測結果とほぼ一致する)。もっとくだいて説明しよう。原子核は陽子中性子からできている、と学校で習う。しかし、よく考えると、陽子のようなプラスの電荷を持ったものが集まっているのは変である。むしろ陽子と電子が原子核でくっついているほうが、古典的イメージに合致するでは、ないか。磁石をイメージしてもいいのだが、プラスとマイナスが引きよせあい、プラス同士は反発しあうのが、世の習いというもの。ましてやプラスでもマイナスでもない中性子ごときが陽子とくっつくのは電磁気学的に変では、ないか。……というと、もちろん電磁的には、くっつくいわれは、ないのだが、それをはるかに上回る核力で引き寄せ合っているので、トータルでは、くっつきあう。

核力というのは、重力や電磁気力などと並び自然界の基本的な力(4つが知られている)のひとつ、いわゆる「強い力」であると考えられる。

ところで、原子核の質量を調べると、陽子・中性子の質量をばらで計って足したときより減っている(質量欠損)。これは、質量の一部が、核力のエネルギーに変換されていると考えると説明がつく。

さて、陽子1個と中性子1個から成る原子量2の水素を考える。こういう水素を2個、融合させると、陽子2個&中性子1個のヘリウムができて、余った中性子1個は、どこぞへと飛び去る。直観的に考えると、「陽子1個&中性子1個」のペアを別々に2対くっつけるのに必要な「糊」より、「陽子2個&中性子1個」をまとめてくっつける「糊」のほうが、少なくて済みそうな気がする。であるから、前者から後者へ移行すると少し糊(エネルギー=質量)が余る。余った糊は外にはみでてくるので、こいつをいただく。……以上が、非常にいい加減だが、いちおうの説明だ。

古典的模式図を使ったあやしい説明。青い線が「核力」と思ってほしい。2対の陽子&中性子を別々にくっつけるより、右辺のくっつけかたのほうが「糊」が節約できるので、余った核力が外に出る(黄色の部分)

核融合の実用化と危険

上記の反応でいえば、材料となる水素は、どこにでもある水(例えば海水)から取り出せるので、非常に安上がりである。化学の知識をお持ちのかたは気づかれたかもしれないが、この場合の水素は、ふつうの水素1ではなく、その同位体の水素2(重水素)である。それにしても、石油やウランに比べればタダのようなものと言うべきだろう。なお、水素2は、ふつうの水素の同位元素であるが、放射性同位元素ではない。たまたま初期の原子力が放射性物質を扱っていたため、原子力といえば放射能と短絡的に理解する向きもあると思うが、それは正しい理解でないので、ここで改めてほしい。

核融合は実験的には成功しているが、実用化するには、採算がとれないといけない。何が問題か? 原料の重水素を調達するコストは無視しうる。しかし、これらが核融合反応を起こすような条件を作るのが大変だ。資料によると、摂氏5000万度から数億度の高温を必要とする。水素ガスをこんな高温にしようとしても、ふつうにやると途中で加熱容器の外壁が熱で壊れてしまうだろう。であるから、何らかの方法を用いて、水素を、容器外壁と触れない形で、閉じこめる必要がある。

このような超高温では、水素はプラズマ状態にあって、磁力によって閉じこめることができる。しかし、超高温のプラズマを、外壁と反応しないように閉じこめるには、非常に強い磁場が必要だろう。くだいていえば超強力な電磁石を用意しなければならず、磁場を維持するには、たくさんの電力を消費するだろう。要するに、ここで使う電力より、取り出せるエネルギーのほうが充分に大きい場合にのみ、磁場によるプラズマ閉じこめは経済的に正当化される(実用的となる)。

磁力による閉じこめ法で実用化されるかもしれないのは、一般にトカマク装置と呼ばれるシステムである。ほかにもプラズマ閉じこめの方法は研究されているが、実用化までには、まだ時間がかかりそうだ。

また、現在の知見では、核融合は核分裂の場合と比べると非常に安全なのであるが、実際に実用化され充分な経験を積むまでは、現在の知見では認識されていない予期せぬ問題が生じる可能性がある。しかし、だからといって、「原子力は危険だ」と決めつけて研究を中止すべきだ、とも言えない。未知の領域に挑む以上、ある程度のリスクは避けられない。むろん既知の問題に対しては万全の備えをし、慎重に少しずつ実験を積み重ねるにせよ、いつなんどき予期せぬ未知の問題が生じないとも限らない。

その意味で、原子力が「危険」だというのは事実であり、未知特有の怖さ、畏怖(いふ)を呼び起こすのも事実だろう。しかしそれは、原子力開発の途上における未熟さゆえの危険性であって、やがては克服されうべきものだ。決して原子力が本質的に危険なのでは、ない。ましてや、原子力兵器の被害にあった過去のトラウマと、未来のエネルギー候補である核融合とは、ほとんど縁もゆかりもないのである。

人類のエネルギー需要がこのまま伸び、かつ、地球の生態系を破壊したくなければ、なんらかの形で質量を直接、エネルギーに変換するしかないのは明白だろう。化学反応、とくに有機物の燃焼反応からエネルギーを取り出すと、環境への影響が広範な割には、わずかのエネルギーしか得られないからだ。

だからこそ、副作用の大きい化学エネルギーに比べて、原子力はクリーンで効率が高いと感じるのである。去年の「火の神」という記事も、この趣意だ。


夢のエネルギー:超電磁発電(笑)

2000年8月23日

ものは言いよう

こういうふうに書いてあったらどう思います?

「海水中には、ジュウテリウムと呼ばれる特殊な水素が大量に含まれています。この水素を特別な反応装置を用いてヘリウムに変換すると、安価で安全なエネルギーをとりだせることが分かっています。とりだせるエネルギーの量は原子力発電にも匹敵しますが、原子力発電の場合のような危険な放射能や放射性廃棄物の心配は、ありません。原料は無尽蔵の海水、副生成物はヘリウム(ふうせんや気球のガス)。装置内は超高温にする必要があるので、現在、高温に耐える方法がいろいろと研究されています。装置のなかでは、気体の水素が電気を帯びたイオン状態になっているので、電磁石を用いて気体を閉じこめることが考えられています。この方法が実用化されれば、人類は、エネルギー問題から解放され、無限のエネルギーをほとんど無料でいくらでも使うことができるようになります。」

こういう書き方のほうが、あるいは、いいかもしれませんなぁ。核融合というと「核」という部分でアレルギー反応が出て、あとは、いくら説明しても聞いてくれない人が多いようなので。

核融合は今ある原子力発電とは、まったくシステムが違うのだから(原料も発電装置も発電プロセスも副生成物もぜんぶ違う!)、いっそのこと、名前も「超電磁水素発電」とか「水素ヘリウム化発電」とか「海水ジュウテリウム発電」にしたほうがいいのかもしれません。「原子力発電」というと、もうそれだけで、危険だと盲信する「原子は怖いぞ教」信者が多いので。

あなたは洗脳されていますか?

被爆・敗戦国の原子力ヒステリー」は、「原子力→放射能、嫌悪」という連想が正しくないことを指摘し、そのような連想が生じるのは原子力爆弾がらみのトラウマのせいではないか、と示唆したものです。このトラウマゆえに、原子力について、いくら説明しても聞こうとさえしない、かたくなな人もいるのでは、ないでしょうか。

核抑止力理論によれば、第二次大戦後、世界戦争が起こらないのは、戦略核兵器への恐怖感のためである。実際、核の恐怖があってさえ、米ソはアフガニスタンなどで小規模な代理戦争を続けているが、もし核兵器がなかったら、全面戦争になっていてもおかしくない場面がいくらでもあった。核抑止の理論が正しければ、かつ、生物には強い闘争本能があるとするならば(この仮定は妥当だろう)、「核」というキーワードは、生物の本能を抑圧するほどの「原型的恐怖」になっている――いわば「死」より恐ろしい「超死」だ。そうだとすると、「核分裂」であれ「核融合」であれ、「核」と聞いただけで霊長類ヒト科の個体が防御態勢をとって身構えるのも理解できるのである。いわば「こわい父親」に「ケンカすると核で皆殺しにするぞ」と脅されつづけた幼児期に由来する心理的外傷だ。

なぜ、「原子力→放射能」という連想が正しくないのでしょうか?

答は単純です。実際、原子力エネルギーは、一般には放射性物質とは関係ないのです。たまたま現在、地球人が実用化している原子力利用法に放射性物質が関係するものが多いので、「塩味の食べ物しかない国では、食べ物は、すべてしょっぱいという思いこみが発生する」とでも言うべき状態なのでしょう。しかし、知らないだけで、実際には塩味以外の食べ物もいろいろあるのです。

例えば、クリーン・エネルギーの代表選手というイメージのある太陽光も、原子核反応で光っているものです。水力は、どうでしょうか。高地から海へとそそぐ水のエネルギーを利用するわけですが、流れていった水をふたたび高地のダムに戻さなければ、水力を継続して利用できないのは明かです。ところが、河川や海の水をすいあげ、ふたたび位置エネルギーを与える巨大ポンプは、原子力で動いています。水力というのは、原子力を非常に無駄の多い形で間接利用しているのです。風力も火力も、元をただせば同じく太陽の原子力です。太陽とあまり関係ないのは地熱発電くらいでしょう。

この話をするたびに「詭弁(きべん)だ」などと言われるのですが、理系の人ですら、こんな単純な原理を理解できないのは不可思議なことです。

太陽エネルギーの源泉が原子力であることは天文学的には極めて明白なのですが、おそらく「原子力は危険。太陽熱はクリーン」という教えを一万回も耳元で繰り返され洗脳されているかたにとっては、この事実は「矛盾」しているように見えるので、認識することが困難なのでしょう。キリスト教原理主義者や回教徒がダーウィンの進化論を認めないのと似ています。

太陽エネルギーを人類の手に!

まあ、太陽エネルギーの正体が何であるかは、さておき、それを利用したいというのは、自称環境保護団体のみなさんも同意なさるでしょう。

しかしながら、太陽の光というのは、その性質上、昼間しか使えません。高緯度地方などで季節によって昼間が短いと、やっかいです。冬に使うエネルギーを夏のあいだにたくわえておく、ということも、理論的には可能ですが、コスト的に非現実でしょう。さらに、我々としては、長期的展望にたって、地球より遠方や太陽系外の恒星間宇宙でも安定して使えるエネルギーがほしいのです。江戸時代の日本人が「我が藩の薪(まき)が足りれば、それで良い」と信じていたように、2000年紀のみなさんは「とりあえず地球上で使えればいい」と思っているかもしれませんが、まあ、衣食足りれば、夢も出てくるでしょう。

ともあれ、昼夜季節を問わず太陽エネルギーを安定的に利用するには、いつまでも天然の太陽に頼っているわけには、いきません。頭のいい類人猿は、とんかちの形をした骨を道具として利用したかもしれませんが、いつまでも天然の偶然に頼らず、自分で、ものを叩く用途に特化した頑丈なとんかちをこしらえるのが文明というものでしょう。

もちろん「パンがなければお菓子を食べればいい」という考えもあります。昼は太陽光を利用し、夜は、たき火を使うわけです。しかし、たき火の薪(まき)は無限にあるわけでは、ありません。「パンがなければパンを運んでくればいい」という考えもあるでしょう。宇宙からの太陽エネルギー電送など。1年ほど前、コスト的にけっこう実用化できるかもしれないレベルまで来たというニュースがありましたが、本質的に旧人類的な発想でしょう。太陽の近傍でしか使えないからです。我々は昼だけに生きるのではなく、みずからの手で夜を照らし、夜を切り開き、夜のなかへ旅立ちたいのです。

「マナ(神が天から降らせるパン。出エジプト紀参照)などあてにせず、パンがほしければ自分で焼く」のが人間の実存でしょう。

太陽系の太陽は、現在、水素をヘリウムにする反応で燃えている。なぜそれと同じことを人工的にやっては、いけないのでしょう? 川に橋を架け、荒れ地に道をひらき、夜にあかりをともし、人工衛星で通信をし、月や火星にまで出かけ、太陽系外へボイジャーを放った我々では、ありませんか。これこそヒトという自然。知性という本能。

神をもおそれぬ馬鹿者は「自然の摂理に反している」などと言うが、あなたは神を信じぬのか。全能の神を信じるなら、神がおゆるしにならなければ、何事も起こらないということが分かるはずです。もし神が火の使用を禁じたなら、人類は初めから火を使えなかったでしょう。

太陽エネルギーを人類の手に! そして、太陽よりも優れたものを!

スペースシャトルの実態

SF作家なら誰でも考えるかもしれない。宇宙を移動するには、真空空間からエネルギーを取り出すなんらかの方法がほしい、と。それが高望みなら、せめて宇宙塵(うちゅうじん)や星間ガスのような任意の質量を運動エネルギーに変換する装置がほしい、これは理論的には可能なことが分かっている。100%変換できれば、そのへんの塵(ちり)一粒でさっと冥王星まで飛べる。100%変換できなくても、核子エネルギーの数パーセント、つまり欠損質量の一部をいただくだけでも、とりあえずは満足すべきだろう。スペースシャトルを思えば! スペースシャトルを先端技術と信じる人は多いだろうが、船体重量の98%だかが燃料と酸化剤、ものを燃やして出るガスで飛んでゆくというのは、原始的きわまる。

では、どういう航法が好ましいか。……と書き出すと本題からそれてしまうが、少なくとも、地表から大気圏外へ出るのは、わざわざガスのもとを積まなくても、吸い込んだ空気を充分に加速して吐き出すのでたくさんなのだ。そんなのでは大気圧が減ったら困ると思うかもしれないが、空気が充分に濃いところで脱出速度に達すれば、もうエンジンは止めても勝手に飛んでゆくのが宇宙である(空気が薄いからこそ空気抵抗で減速されない)。それでは加速がきつすぎると思う人もいるだろうが、それは宇宙船は真上に飛ぶものという常識にとらわれているからだ。

ある人が山に登るとする。この人は、すぐおなかがすく性質で、毎日5キロ食べないと動けない。よって一泊二日の山行(さんこう)には10キロの食糧を背負わなければならない。ところが、10キロの荷物を背負って歩くと、余計おなかがすくので、追加食糧が10キロ必要。合計20キロ。ところが20キロを背負って歩くと、さらにおなかがすくので、特別追加食糧が5キロ必要。ところが、この特別追加食糧を運ぶのでさらにおなかがすくので、特別追加食糧運搬用食糧が3キロ必要。そしてその3キロを運ぶのに、もう1キロ必要で……。という、この効率の悪さが、わたしのイメージする現在のスペースシャトルだ。

宇宙船が重く巨大なのは燃料をたくさん積んでいるからで、なぜ燃料をたくさん積むかというと、燃料が重いから。……この堂々巡りの呪縛さえなければ、宇宙船は、はるかに小さな、はるかに手軽な乗り物になる。

月に行ったサターン5型ロケットを考えてみよう。いまどき石油を燃やして宇宙に行くとは、我々が猿を見るようにしか見えないだろう――進化した知性体から見たら。何段にもなったロケットは、ぜんぶ「飛ぶために飛ぶ」。燃え尽きたら切り離して捨てるだけ。あれだけのもので飛び立って、地球に戻ってくるのは、先端の円錐形の部分だけ。生命維持装置とかは、あの大きさで足りるのに、あんな小さいものを運ぶだけのために何十倍もの重さの「ガソリン」を積みこむ燃費の悪さ。じつに、宇宙船というと科学の最先端のようだが、最先端ということは、未開で野蛮なのである。この認識を持ってほしい。

もうちょっと夢があるのは、スタートレックのUSSエンタープライズだ。機関部でプラズマを使っている。核融合エンジンだろうか(注:核融合は一般に放射性物質を使いません。くどいようだが、核と聞くだけで脊椎反射を起こさないでね)。ジュウテリウム(重水素)でなく、「ダイリチウム」という謎の燃料を使っている。リチウムがふたつくっついたような特殊な物質なのか。核融合でも、燃料は水素でなく、次のヘリウムでもなく、3番元素のリチウムというところが、マニアックで好ましい。

むすび

わたしが原子力をクリーンだと感じるのは、もしかすると一般的でない感じ方かもしれません。化学反応でも、水素ガスの燃焼などはクリーンだと思うのですが(副生成物も水。中学の理科の実験でやった)、化学反応から取り出せるエネルギーはたかが知れています。ましてや、石油のような有機物を燃焼させるのは、排気ガスがもうもうと出るのをべつにしても、汚いエネルギーだと思います。水力や風力も良いのですが、偶発的、僥倖(ぎょうこう)的な、たまたま一時的にある野ざらしの原始的資源という感じがするのです。この電子の時代に、ものを燃やして蒸気でタービンをまわすだの、ダムを作って水車をまわすだの、どうもしっくりしないのです。子どものころ、ガソリン自動車のエンジンのしくみを読んだときも、「なんか、やぼったいなぁ」と思ったものです。

在来型の発電器をまわすには、例えば原子力発電であっても、最終的にはタービンをまわすださい運動エネルギーを経由する。しかし電磁誘導の原理そのものは、あんな形のタービン、ダイナモを要求していない。直観的にも分かることだが、あれではエネルギーの変換効率が悪いだろう。核融合でも、どうやって電気エネルギーに変換するかの経路がひとつの問題になる(もちろん理論的には、二次エネルギーが電気でなければいけないということもないのだが)。

原子核からエネルギーを取り出すのは、いかにも文明的で、クールな感じがします。もちろん、原子核といっても、ウラン原子のような、生物にとって、あぶなっかしいものが好ましくないのは、言うまでもありません。わたしが「原子力」というときは、むろん原子力一般を言っているのです。他方、みなさんは、原子力のなかで例外的に危険性の高い部分(ましてや人を殺すために作られた核兵器)だけを念頭に置いているので、それで話が合わないのかもしれません。原子力という言葉のイメージが悪ければ、「実用化がいちばん簡単な質量→エネルギー転換」と思ってください。質量をエネルギーとして利用できないのでは、アインシュタイン・パラダイムも絵に描いた餅では、ありませんか。

ある仮説によると、真空といっても本当に何もないのではなく、非常に短い時間、粒子が出現しては消滅するということが起こっているといいます。もしその通りだとすると、理論的に、真空からエネルギーが取り出せます。もちろん、これは仮説上のことですが、例えば10のマイナス30乗秒だけ生存する粒子をすばやく捕獲して、「ここであったが百年目、エネルギーになってもらいましょう」変換しちまうのです。これができたら、愉快でしょう。

長くなったので、今回は、ここまで。今回、書けなかったトピックは、掲示板の書きこみを参照。



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