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Harmony: リバースエンジニアリングと相互運用性

2004年 7月30日
記事ID d40730

2004年7月28日 RealPlayer 10.5 beta: 今のところ Auto Update 経由のみみたい。(ウェブにもあった) RealPlayer のネット接続を許すとむしずが走る…のはともかく、 このアップデートは、相互運用性のあるDRM 「Harmony™ Technology」 が目玉らしい。 これまでのDRMは、例えばWMAはWMAのデコーダでないと再生できない、 といった制約があったが、 これだと、Realで買ったものをiPodで再生…といったある程度の融通が利くという。

RealPlayer 10.5のiPod連携はAppleに無断: 英断か強引か

2004年7月29日

'Stunned' Apple rails against Real's iPod move

既にお伝えしたように、RealPlayer 10.5 beta の目玉は、 Harmony という機種越えDRM技術である。 Apple と手を結んだのかと思いきや、Apple は勝手にやられたとカンカン、次の iTunes のバージョンアップでわざと非互換にして、 Real では再生できなくする、とまで言っている。 ( Neowin より)

iTunes の非互換はこれまでにもあって、バージョンを下げると、iTunes そのものが起動できなくなるような、 ユーザからみてかなり不便な挙動もあった。

DRM それ自体が気持ちのいいものとは言えないとしても、 ようやく産業全体が少しずつ良い方向へ変わり始めたこの過渡期に、 Harmony の考え方自体については、一定の評価はできる。

この問題をさらに掘り下げるならば、 Real Player の Linux 版、Helix Player を GPL で公開してしまうことの「矛盾」が浮き彫りになる。 えげつない商売の代名詞のような Real のプレーヤーが、他方で GPL であり、 Ogg Theora を世界初サポートするほどコミットしている、という奇妙な二面性は、 もっと注意されていい。 そして、Apple のDRMを解除するコードも GPL 、 その名前が Hymn であることを思い出せば、 Hymn と Harmony …、名前からして、一脈通じるものがある。

Helix と Real の関係は、 Mozilla と Netscape の関係に少し似ているのかもしれない。 Netscape 4 が嫌われていたように、Real も嫌われているが、 それは FireFox の人気とは関係ない。Helix もそういう地位になるのかもしれない。

RealPlayer はハッキリいってムカツク存在なのだが、 QuickTime のずうずうしさも負けていないわけで、 このニュースは Apple にとってマイナスに作用すると思う。 iTunes で音楽を自由にしたかのようなプラスイメージが大きかったのに、もったいない。

Apple 128 Kbps AAC vs. Real 192 Kbps AAC

ここで Karl が説明してる。
RealNetworks Says Files Can Play on iPod, Also works on other players

追加リンク

Real 'frees' Apple's iPod player

Apple Not Too Harmonious with Real (slashdot)

Apple の「本当」の問題

Apple's real problem
「アップルのDRMをリバースエンジニアリングで破った」と書いてある。完全に確信犯だ。 そして Harmony と Hymn の名称の一致もわざとだろう。 Real でも再生できる、ということは、むしろ、どちらかといえば、Apple にとっても市場拡大のチャンスなのだが…。

補足説明

リバースエンジニアリングは技術の発展、特に互換性のある製品の開発に欠かせない普通の技術だ。 DMCAでも、1201節 (f)で、相互運用性のためのリバースエンジニアリングを明示的に認めている(念のために同じ条文へのリンクもうひとつ)。

が、主要な判例では、この条項の文字どおりの意味とは違う運用がなされてきた。最も有名なのは、DeCSSだろう。 すなわち、DMCAの実際の運用上、リバースエンジニアリングが違法とされてきた経緯がある。 そのことを知りながら「これは常識的、倫理的、技術的にはもちろん、法律的にも本当は正しいことなのだ」と確信して、いざとなれば判例を覆す覚悟でやっている。 当然のことながら、Realの法務は、勝ち目があるとみて、これにゴーサインを出したのだろう。 米国以外では、一般にDMCAのような奇妙な法はないから、上記のことは、必ずしも世界の常識ではなく、とりあえず米国に限った話だ。 例えば、DeCSS もアメリカ以外では作者も無罪が確定、使用は合法である。

Realがこの態度、という点が、何とも皮肉で、興味深い。 Realは、StreamboxVCR がらみでは、 1201f を無視したがる逆の立場の存在として、嫌われていたのだ…

もし万が一、クローズドのプロトコルを解析することが禁止されてしまうと、データ形式の相互運用でLinuxユーザは非常に困ることになる。 当時は、このままではRVをLinux上で見れない、という危ぐがあった。Helix の今とは隔世の感がある。

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BitTorrentの問題

2004年 7月31日
記事ID d40731

コピーコントロールが問題になるような需要の高いデータは幸せだ。 人間が「正規版」と呼ぶにせよ「無権限」と呼ぶにせよ、 とにかく存在はできる。

ビジネスベースでは救いにくい絶滅危機データは、 もっと本質的な問題だ。 急激な技術の進歩で急に「救える」範囲が増大したのに、 それを実現する安定したしくみが追いついていない。 権利関係の袋小路で動きがとれないまま、見殺しにされかねない。

BitTorrent (BT) は大規模な配布に最適化されたツールなので、 かえって「大規模」それ自体の問題を浮き彫りにしてくれる。 以下では、BT を具体例として、「大規模」それ自体の問題を考えてみる(BTは、あくまで例であり、BT自体がどうこうというわけではない)。

BT は既存のビジネスモデルと相性のいい「善玉P2P」だが、 世界を変える力はない。

  1. 感謝されない存在の価値

    感謝するということ自体、人間中心の発想だ。 人間を中心にする限り、需要の大きい刹那的にセンセーショナルなものが、 より長期に渡る薄いニーズを持つデータを圧迫する傾向を避けにくい。

  2. BTでは革命は起こせない

    情報が自律的に飛べるほどの系ではない。 人間がほしくなくなると動かなくなってしまう、という点で、BTは「従来型」の人間中心系である。

  3. 「個人の寿命より長期」に最適化された存在

    情報が自律的に安定して存在できる可能性があるとしたら、 そのデータは特定の物理的リソースと結びついていてはいけない。

感謝されない存在の価値

今になってみると、BTには複雑な気持ちだ。 遅かれ早かれ起きてくる問題だったが、BTはそれを速くした。 BTが出る前は世の中平和だった。 BTが出た当時は、これでチャンネルが寂れると心配する人はいても、ここまで急激に広まると思った人は少ないのでないか。

BTの本質的問題は、効率が規模に依存してることだ。

肥大化しないと回転しない、というシステム、それ自体が、このシステムの弱点だ。 しかし、これからは「規模」とは違う価値観になるだろう。 もちろん「超大作」「世界的大ヒット」という作品も、分野を問わず多少は続くと思うが、 それとは別に、マイナーな創作が盛んになり、ある意味、世界は豊じょうになるだろう。

図式的に言うならば、月に数千円を払って応援してくれるファンが一人の作家につき百人いるだけで、 その作家は十分に創作活動を続けていけることになる。 アーティストは、ファンが百人の(今の世界の価値観でいえば)「無名のアマチュア」でも、問題ない。 ファンとしても、自分が応援する相手に直接支払ったほうが物事が透明で気持ちいい。 もちろん、現実には、突然そんなに単純に物事は変化しないだろうが、 流通などの中間コストをゼロに近づけたネットのメリットは、最終的には、そういう形になるだろう。 今現在の創作形態が絶対的に悪いという意味ではないし、 それにはそれの利点もあるのだが、 結果的には、今の形は物事の多様化に対応しきれないだろう。

となると、その流通形態は「現在の」BTのような大規模系とは異なるものになるだろう。

もし、創作活動と流通の間がより密接なものに変わるなら、 現在のメディアが(宣伝して)なるべく需要を大規模にしようと努力するのと対照的に、 そういう創作は「多少お金をかけてでも、自分が大規模になりすぎないようにする」努力を求められるかもしれない。 自分で流せる以上の需要を作らない、ということなのである。 例えば、無農薬の野菜の栽培や、こじんまりとした(でも特色のある)料理店のように、 大規模ではやれと言われてもできないが、 小規模だからこそできること、すなわち、小さいことそれ自体が価値になるような形だ。

つまり、アーティストは有名になるために仕事をするのではないし、 目立ちたいだけのモチベーションでは入れない世界になる。

ひとりひとりの好みはますます複雑になり、 価値観も多様化しているので、 誰にでも受ける、というものは、よほどすごい例外か、 さもなければ、誰にでもほどほどに受けることは受けるが、熱烈な支持はあまりない、ぬるいものになるだろう。 メガヒットが出にくい、ということは、文化が成熟した証しかもしれない。

いまのこの時期は、成熟というより、爛熟、退廃という感じがするが、 やがて「電子」という言葉が古くさくなる量子の時代が来たとして、 そのとき、もはや流通ベースで課金することそれ自体、流通コストがゼロであることそれ自体、問題の核心でなくなってしまうのでないか。

例えば、今、ここで「人間が生きられるようにする商売」というのは、普通、商売でない。 一応、生存はできて当たり前ということがある。そのことで、一般には、あまり創造主(神)に感謝したりしない。 (もちろん日々の糧について神に感謝しないとは不遜、という批判もありえるが、人間は人間自体で神なくとも完結する、という見方もありえる。) そのように、例えば、ミュージシャンが音楽を作ることは「商売」でなくなるかもしれない。 データは存在して利用できて当たり前で、そのことでデータを作った人間に感謝したりしなくなる、という世界だ。

もちろん日々のデータについて創作者に感謝しないとは不遜、という批判もありえるが、情報は情報自体で完結し、 人間の寄与はもともと補助的、という考え方もできる。例えば、一曲のミュージックに含まれているさまざま局面のうち、 そのほとんど(楽器であるとか、音階であるとか…)は、単にプロトタイプを継承しているだけだからだ。

感謝するということ自体、人間中心の発想だ。 人間を中心にする限り、需要の大きい刹那的にセンセーショナルなものが、 より長期に渡る薄いニーズを持つデータを圧迫する傾向を避けにくい。

いちいちフルートを使ったからフルート屋に利用料を払え、というたぐいを言い出すと、 音楽は死ぬ。現実のフルート屋は、音楽に課金しなくても生きられる。 フルートという楽器が、それ自体として、必要とされているからだ。 それに反して…。

BTでは革命は起こせない

今、企業はたくさん売ることで成り立っている。 例えば、読者が100人しかいない本を作り続けて、それで大きな会社が成り立つとしたら、 一冊の本の値段はすごく高くなってしまうだろう。けれど読者が百万人いるなら、一人から10円ずつ余計にとるだけで、 やっていける。

たくさん売れれば採算がとれる。 あまり売れないと話にならない。 たくさん売るために宣伝する。 宣伝やプロモーションのためのコストもまた採算に跳ね返り、 コストがコストを呼び雪だるま式に大きくなる。 それが常識だった。

BTの「規模に依存したモデル」は、実はそうした従来のモデルに近い。 BTは一見100人未満の小さい範囲でも動くように見えるが、 そのトレントが長期に渡って実効的に保たれるには、見た目以上のリソースが必要だ。 そのトレントが存在すること自体を、どこかで宣伝する必要もあるだろう。 結局、ある種の大きさがないと動かない。

BTは「雪だるま式」に動いている。 自転車操業だ。 単純化して言うと、例えば10人のダウンローダーが平均10%ずつ持っている状態で100%を続けるとするなら、 誰かが落とし終わって抜けるより先に別の誰かが落とし始めることで、10人を保たなければならない。 常に数十人が落とし続けるような(総流量がTBオーダーになる)人気作品でないと、雪だるま式には動いてくれない。 実際にはシードがあるわけだが、 見た目以上に綱渡りで動いているし、雪だるまに乗り遅れると、完了できない危険もある。

しかし雪だるまは永遠には転がれない。必ず「市場」が飽和して破綻する。 日数が経過してホップが伸び、 マップが拡大すればするほど、逆にどんどん信頼度が低下する。BTでの伝播・拡散は信頼度の向上とイコールではなく、 むしろ逆相関だろう。 情報が自律的に飛べるほどの系ではない。 人間がほしくなくなると動かなくなってしまう、という点で、BTは「従来型」の人間中心系である。

現在の BTはそうした大規模に依存する系でありながら、 実際には自主的なインデックス、 自己犠牲的なシーディング、 あるいは個人的なリトレントによって、成り立っている。 これは短期的な運用にはいいとして、年単位での長期に渡る安定性を与えない。

超マイナーな作品を大量にキャッシュできる余地は、あまりないだろう。 結局、BTでは従来の企業モデルを超えられないのではないか。

企業が自分のサーバにトレントを置いて、 BT を使ってダウンロード販売を行った場合には、 突然何百人が押し寄せようが、何万人が押し寄せようが、ほとんど困らないというメリットを享受できる。 瞬間最大帯域に合わせて帯域を確保する必要はない。 トラッカーが動作するリソースだけあれば十分だ。 結局、BT は大規模性によって成り立つという意味での「既存のモデル」と相性の良いソリューションであり、 個人が支配するには一般にはそれほど便利ではない。

「個人の寿命より長期」に最適化された存在

情報が自律的に安定して存在できる可能性があるとしたら、 そのデータは特定の物理的リソースと結びついていてはいけない。

例えば、古典的な形でhttp~でポイントできてはいけない。そのような情報は、 そのサーバがなくなれば消えてしまう。 そのサーバの物理的・人的リソースに依存しているから、 信頼度が低い。強権でそのサーバを押さえて、強制的に消すことさえできてしまう。 人間に従属する情報だ。

人間に関する情報は人間に従属してもいいだろうが、 それ以外の(つまりほとんどの)情報は、その瞬間に誰かが必要としているかどうかと無関係に、 常に検索&リトリーブ可能であることが望ましい。

そのためには人間が判断して必要か不要か、良いか悪いかを決めてはいけない。 人間が介入できない保証が必要だ。

人間の干渉を小さくする古典的な工夫は、謎めかすことである。 弾圧下における政治風刺などは、そういった形式をとったかもしれない。 また、リソースへのアクセスを難しくすることだ。 簡単には分からないけれど、それを切実に欲するなら探せるような場所に、置く。 あるいは場所を揺らす。 または何らかの手段で、そのリソースがほしければ参照しないで実体をコピーするように暗示する。 しかし、これらの一時しのぎも、明らかに超長期的な安定は与えない。 (実体をコピーさせるのはBTでいう雪だるまの発想で、問題を先送りするにすぎない。)

言い換えるなら、安定した情報存在は、ある程度まで、短期レベルでは、人間からみて直接的にすぐ利用しにくい、性質を持つのかもしれない。 これは人間に従属していないことから直接出る結論なのかもしれない。

「これからはBTだ」と最初期に書き込みした自分自身、 ここまで普及するとは思っていなかった。 Winny もこんなに普及するとは思っていなかったし、 OGM や MKV を世界に紹介してきたが、これらがこういうふうに急に普及するとは思っていなかった。

注目株と書いたものが実際に爆発的ヒットをするのは勘が当たって嬉しいはずなのだが、 実際には、いつも苦々しさが残る。技術的挑戦がエキサイティングだったはずのものが、 あっという間に「変な」使い方ばかりになっているからだ。 そうした使い方を法律的や倫理的に批判するつもりはまったくないし、 そういうことを考える立場でもないけれど、 技術的興味から紹介したものが、実際には技術より形而下の願望を中心に広まってしまうことが、 釈然としない感じの原因なのかもしれない。 そういうふうに感じること自体不合理かもしれないが、そう感じるのは抑えられない。

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