フジテレビの公式サイトには、過去のトリビアの一覧はない。当然である。そんなことをしたら、本の売れ行きに響くからだ。
と、いうわけで、アクセスアップを考えるにはとっておきの状況が、そこに生まれる。とはいうものの、今から参入しても、もう遅い。とにかくトリビアの泉が脅威の情報量・完成度を誇っており、みんな納得の一人勝ち。確認VTRの内容までフォローされていることには恐れ入った。
けれども、この手のサイトは更新がたいへんなので疲れやすく、また有料サーバを利用しているだけに番組終了後には閉鎖が予想される。地味にトリビアの記録をコツコツとアップしておくと、いいことがあるかもしれない。
技術評論社の「Web Site Design Vl.9」が発売され、私のところへ図書券が送られてきました。「読者の声」欄に感想が採用されると1000円分もらえるみたい。あ、本名で出てるので、書店で見てもどれが私の感想なのかわからないと思います。
ところで、森田雄さんの記事の中に「フォントサイズ固定に残念な思い」という話があるのですが、私はそうではなくて、「Web系のテーマでプレゼンテーションする人にさえフォントサイズ固定の解除方法も知らない人が多いことに残念な思い」というべきだと思いました。
W3Cがなぜ、フォントサイズを固定できるようCSSの仕様を定めたのか、なぜみな考えないのでしょう? 本当にフォントサイズ固定がよくないのなら、フォントサイズを固定できるような仕様にはするべきでなかったはずです。でも、そうはいわないわけでしょう。どういうわけか、フォントサイズ固定という選択肢はあっていいと思っている。で、あるならば、フォントサイズ固定の解除方法を普及する努力も必要なはずです。
大規模ネタオフとFlash mobsの最大の違いは、マスメディアに「インターネット発のムーブメント」として、詳細がきちんと紹介されているかどうか、という一点に尽きる。残念ながら、一部の大規模ネタオフは既報のフラッシュ・モブのいずれをも遥に凌駕する規模で開催されているにもかかわらず、継続的に記事に採用するのは2ちゃんねる系雑誌やネットランナーのようなニッチメディアに限られている。
米国発のblogが海を越えて世界中へ伝播している一方で、日本の日記サイト文化がユーザ数の割にマイナーであり続け、海外へ影響を及ぼすどころか日本人の間でさえ重要視されずにきた理由も同じだ。新しい文化をマスメディアが(意図せざるところにせよ結果的に)バックアップして盛り立て、グローバルスタンダードへと押し上げること、そして自国文化を外国へ輸出することにかけては、米国は超一流だ。ぼやぼやしていると、何でもかんでも米国が発祥の地と認定されてしまうのである。
別にそれでもいいじゃん、というのが日本人の生き方なのかもしれない。まあ、それならそれでも、たしかに私個人は困らないのだけれど。ただ、米国一流のハッタリを真に受けて恐れ入ってしまうのは、どうもつまらないと思う。サーカスのエキシビジョンマジックを見ているわけであるまいし、騙されて喜んでいても虚しいような気がする。してやられてから怒ってもしょうがないのであって、大規模ネタオフがフラッシュ・モブの模倣と誤解される理由について、関係者(?)は今一度考えてみてはどうか。
blogはWeb日記であり、MTはtDiaryに匹敵する優れたツールのひとつだ。フラッシュ・モブはネタオフの一種であり、日本におけるその第1回は、参加者数わずか9人に終わった。実態を見つめるなら、要はそういうことではないのか。(念のために申し添えるなら、日本におけるフラッシュ・モブの参加者数は、次回は2桁以上になると私は予想している)
ちょっと読書に疲れました。私にはたぶん高村薫は高尚すぎるんだと思う。たいていの小説は50ページ我慢して読み進められれば楽しくなってくるのだけれど、高村薫はその先でも何度も「ちゃんと読むのが面倒くさい病」が頭をもたげてきて困った。Amazonの書評にもあったけれども、何でもかんでも書く必要はないだろう。作者の判断で適当にはしょってほしいと思うのだった。
雑誌連載が単行本になると、大幅に加筆訂正してくれる作者が多い。とくに新聞連載などの場合、むしろ連載時にはくどいくらいに同じ情報を繰り返すことになりがちなのだから、きちんと減筆訂正をしてほしいものだと思う。真保裕一は私の好きな作家なのだけれども、半年くらい前に読んだ「誘拐の果実」は妙に繰り返し同じ情報を記述する文章が目についた。ところが、これが書き下ろし作品だというので困ってしまった。仕事が連載中心になったので、寡作の真保さんは文章に悪い癖がついてしまったのだろうか。でも「誘拐の果実」はお勧め。
京極夏彦も私にいわせれば無駄の多い本を書く作家なのだけれども、無駄を書くのがこの人の持ち味だからもう何をいっても仕方ないというか……。でも私は未読の最新作では、とうとう多方面から批判されているから、いい加減やりすぎたんだろう、たぶん。
とまあ私はぶつぶついっているのだけれど、じゃあ粗筋小説を読んだら面白いのかといったら、そうでもないのが困ったところ。赤川次郎は、先日数年ぶりに最後まで読めたんだけれども、その間、何冊を途中で放り投げたことか。古書店へ行くとタダみたいな値段でいくらでも買えるので、けっこう手は出してきたんだ。でも、どうにも読み進める気になれない。まあ、あれこれ文句をいいつつも、次に読了する本はおそらく高村薫の「照柿」だろうと思う。面倒くさくなって、いったん閉じたけれど、続きを読みたいのだからしょうがない。
Scrap Bookを読みにいったら、やたらと更新されていて困った。こっちは一人で、しかも先週はあれこれあって更新できなかった(する気になれなかった/あるいは優先順位の問題で……)ということもあるので、反応が遅くなってしまった。というか、今日もまともに反応する気はなくて、まあ夜になったら気が変わるかもしれないけれど、少なくとも現時点ではない。
アノレヲの中の人とアルヲの中の人は別ですよ。
とアノレヲさんはおっしゃっていて、そりゃそうだろうと思う(というかアルヲさんは現在の***さんでしょ)のだけれど、要するに私がいいたかったのはアノレヲさんの文章は「成功者は語る」って感じだよね、という感想。プロジェクトXを見ていて、「何でそう都合よく奇跡が起きるのかな? 徹夜して頑張れば私にも奇跡が起きますか?」と愚痴るようなものです。
ただ、プロジェクトXは「あなたもきっと成功できますよ」とはいわない。あくまでも、「かつてこうして運良く成功した人がいました」という作りだから安心できます。私はアノレヲさんに恨みはありませんが、「あなたもできるアクセスアップ」という記事には辟易していて、目に留まるたびに批判するということを繰り返しています。それらをまとめて「あなたにはできないアクセスアップ」というテーマで記事も書きました。今回のことも、私にとってはそうした一連の流れの中にある行動だったわけです。
と、ここまでが長い言い訳というか、状況説明というか。
今日、いいたいのは、「ごめんなさい」ということです。
アノレヲさん自身が、読者をミスリーディングしつつこっそりと(しかし読者の眼前でぬけぬけと)皮肉をいう手法をとっているのだから「私は別に悪くない、アノレオさんの狙い通りに騙されただけだ」といってもいいのかもしれない。けれども、わざわざ皮肉を皮肉であるとお書きになったところを見ると、ミスリーディングが効きすぎていたのは意図せざるところだったのかもしれない。
私がDIMEの話題を興味深く読みつつも概ね過小評価する傾向があるのは、世の中の大半の成功は99%の無関心を突破できないという認識があるから。みんなお釈迦様の掌上で走り回っているに過ぎない。
私はこの持論を何度でも語りたくて、いってもいってもいい足りなくて、いつもうずうずしています。その目的のために、アノレヲさんの茶目っ気にいささか悪乗りしてしまったのは、いわばネタばらしを無視してネタにマジレスするようなもの。無粋をお詫びします。
なんか調子が出てきたので続きを書きます。
言葉を精査せずに内容だけが重要と書いたのは、たしかにいささか脇が甘かった。へぇ〜ボタンの話題で勝ち組になったのは僕秩だけだったわけで、いや、他のサイトも僕秩経由で紹介されたから失敗だったというわけではないのだけれど、成功のレベルが違いすぎるわけで。
とはいうものの、たしかに個々のネタを見比べたら、僕秩が特別よいわけではないということはへぇ〜ボタン騒ぎで明らかになったのだけれど、結局poxyさんのいう総合力では僕秩が圧倒的でした。へぇ〜ボタン情報をキッチリ集めて膨大な資料集をサっと組み上げた抜け目のなさは、さすが「たま=サップ」ネタにおいて突風に足止めを食らわせ、話題(=アクセス)の中心地へとステージを上げた僕秩の凄みを見せ付けてくれました。
僕秩は超ド級のネタを一定頻度で繰り出しつつ、集まるアクセスを一過性のものとしない努力を重ねてきたわけで、その総合力は過去の積み重ねがモノをいっているわけです。過去を無視して、現時点におけるネタのよしあしだけをいったら、例えばこのサイトは未だにギリギリ4桁のアクセスがあるけれども、何も更新しない日がホント増えたし、書いている内容は過去に書いたことの繰り返しでしかないし、どうしようもない。だから、現時点でここより内容の充実しているサイトは他にいくらでもあると思う。
小さい企業が大企業よりもいい製品を作っても、その段階では売れ行きに劣る面があるのは、そりゃ致し方ないことですが、ホントにいい製品なら確実に伸びていくはずです。小包自由化以降シェア0%から這い上がり業界1位となったヤマト運輸のような企業はいくつもあり、例えばMicroSoftもそうだったのだろうし、住宅の部品化と工場生産比率の飛躍的向上で大成功した積水ハウスもそう。
浜崎あゆみはエイベックスだからあれほど売れるんだ、というのは事実かもしれない。けれども、エイベックスが昔からカスネタばっかりつかんでいたら浜崎に出会った頃にはボロボロになっていたはずで、その後の成功はもっと小規模にとどまっただろうと考えると、それは浜崎の開花時に実力を養っていたエイベックスの勝利ではないかと。要するにこの世界は複利式+変動金利制になっているので、過去が重要なのです。現在の利率と元金の追加状況だけ見てもしょうがないのではないか。
モンゴル800のように、いきなり傑作を引っさげてデビューし200万枚突破といったケースを見ると、本当にいいものならいきなり売れてもいいはずだ、逆にダメなものならいきなり売れなくなってもいいはずだ、と思うけれども、例外は例外と認識しなければならない。過去を見ずに、現在のことばっかりいってもしょうがないのであって、そこでやはり「継続は力なり」という言葉が出てくるから、結局はアノレヲさんと私は同じことをいいたいらしい。
(それならもっと短く書けばいいのに、ってのは私自身そう思います)
ところで私が浜崎をよく例に出すのは、大勢がそのよさを認める宇多田では論旨がうまく伝わらないから。あと、会社の同僚に熱狂的な浜崎ファンがいて、いつもいじめられていてかわいそう、というのが裏の理由。
ちなみに中高年の方にはダウンタウンを例に話をするとよく話が通じます。浜崎だと「知らない。若い歌手は宇多田ヒカル以外はみんな同じに見える」だったりするので。それにしても中高年の方って、未だにダウンタウンが嫌いなんですね。で、ダウンタウンも知らない方には、久米宏あたりを例に出すと、ようやくわかってもらえます。最初から久米宏を例に出せばいいって? でも若い連中には久米宏を知らない常識のない人間がいるんで困るんですよね。
poxyさんが指摘される通り、私は凡人の勘違いな夢は不幸だ
と思っています。それが信じられる夢であるうちはいい。あるいは、無理と断念してスッパリ諦めがつく夢ならいい。そういった留保をつけてよいのなら、私もpoxyさんに同意したい。
しかし世の中は、「何であんなやつが成功しているのに、どうしてこの俺は」という醜い嫉妬であふれかえっていて、その大半がたんなる身のほど知らずでしかないから、バカバカしいと思う。不幸だと思う。自分を信じているのなら、「しかしいつか自分もあそこまで辿りついてみせる」と展開していいはずだけれど、実際に口をつく言葉は「アー、俺はもうダメだ。世の中不公平だ」というのだから呆れる他ない。
ちょっとそういうことをいってみたい、というのはいいと思う。そういう気分になるときもあるだろう。けれど、始終そればっかりいっている人はどうしようもない。本能的には見果てぬ夢とわかっていながら、アタマがそれについていかない。じつに不幸なことではないのか。
夢を見るなら、信じられる夢を見るがいい。自分自身をすっかり騙し通せるくらいの夢を見るがいい。私はしばしば、そう考えます。
で、徳保氏。まあ、日記やらオモシロテキストやらを書くホームページを作った奴が「やり方次第で誰でも」デイリー200までホームページ育てられるかって言えばそりゃナシなんだが。その一方で需要と供給の関係さえちゃんと見極めればデイリー200なんて数字はそう難しくないと云うのは徳保氏、ご存知の筈だ。自分発のエンターテイメントを読みに来る読者が200人ってーと、こらちょっと辛いけど、情報を拾いに来る200人ならそんなに難しくもないよなぁ?って事さね。
ま、それにしたって「誰でも」ってわけではないんだが、敷居が低いのは事実だよな。つわけで、ココから先はいわゆる「テキスト」サイトがどうやって数字集めていくかって道筋で話が流れてくれると、俺を含めたアクセス厨読者には有益だぜ? 期待age。
敷居が低くなるのは、「可能」のレベルの話でしょう。たしかに、実際にYahoo登録サイトをしらみつぶしに見ていけば、作者を凡人に限るとするならば、テキストサイトで成功しているサイトより、情報系で成功しているサイトの方がずっとずっと多いことは明らかです。(註)
仮に、凡人が本気でアクセスアップを狙うなら、仕事として情報構築に努めればいいという話は、以前、書きました。しかしその場合、「動機」のレベルで大きな障壁が立ちはだかります。たぶん、口ではいくらアクセスほしいといっても、「好きなことをやりながら」という条件だけは取り下げるつもりがないらしい。つまりは「ありのままの私を愛して」といっているわけで、「そりゃあんた、数人が寄ってくれば御の字なんじゃないの」ということになるでしょう。
可能なら実際にできるのか、といったらそうではない。また意図しない形でアクセス増を招いて閉鎖するサイトがしばしばあることにも注意すべきです。だから結局、こうやって需要を見極めれば、まあデイリー200くらいは楽勝、なんて解説を書いたって、読者の1割未満しかそれを実践できないでしょう。
昔、荒廃の歌が「これからのアクセスアップはニュースサイトが狙い目だ」みたいな話を書いた。それは正鵠を射た意見のように思われましたが、ReadMeランキングから気づくことは、下位に行けば行くほどニュースサイトの割合が減るという事実。そして稀に出くわす下位(デイリー50未満)のニュースサイトで、更新頻度も情報量も上位サイト(例えばデイリー500以上)と同等以上のケースは皆無といってよい状況。
ニュースサイトの更新は、みな物理的に不可能ではないけれど、やはり動機の面でよほど強いものがなければ無理。そんじょそこらのアクセス厨ではどうしようもあるまいな、と感じたものでした。
註:趣味の個人サイトで1日数万もカウンターの数字が増えるなんて話は、テキストサイト界隈を除けば例外中の例外。頂点が凄まじく高い、というのはテキストサイト界隈の特徴です。ただし、テキストサイトで頂点クラスの成功をおさめる人がみな異能者であることを念頭におけば、本来その比較対照は新聞社系のWebサイト、有名人のWebサイトなどがふさわしいのかもしれない、という疑念はあります。
また最近、本を読む時間が多くなっています。(だから更新が滞っている、ということ)
興味深い記事だとは思いますが、/.は読みにくいですね。多機能掲示板もよしあしということなんだと思います。はまると非常にいいのでしょうが、たまに拝見するだけのライトユーザにはとっつきにくい感じがします。
基本的に、私はツリー形式の掲示板は好きじゃありません。流れが錯綜して、一通り読むのにえらく手間がかかるからです。複雑なものを複雑なまま処理するのは必ずしもよいことではなくて、適宜、単純化を検討していくべきではないでしょうか。まあ、/.ほど複雑なシステムは珍しいので(人気サイトでは唯一無二の存在)、批判するよりも保護を訴える方がいいのかもしれませんが。モデルケースとしてですね。
筒井康隆の「ベティ・ブープ伝」を読んだのは何年も前のことで、内容などほとんど覚えていない。にもかかわらず、どこかの会社のADSLのCMでベティさんが登場しているのが視界に入った途端に、まじまじと10数秒間画面を凝視してしまった。毎年たくさんの文章を読み、読んだそばからその内容を忘れていっているわけだけれども、頭の中のどこかに強固に残っているものがあるのだな、と思った。
先週の水曜日は9時過ぎに食事をしたので「トリビアの泉」を見れたのだけれども、そこに筒井康隆が出ていた。新聞を読みながら視聴していたので聞き落としたのかもしれないけれども、あんまり発言がなかったような……。私は筒井さんの本が好きなのであって、タレント活動には特別に興味はないつもりなのだけれども、たまたまテレビで見かけると、いつの間にか他の出演者を無視して筒井さんを目が追いかけている。筒井さんの本は全集を読んだ(読破できなかったけれども8割方読みました)ほど好きなのだけれども、そうしたことがやはり強く影響しているのだろう。
ファンなら当然知っていることなのだけれども、念のため書いておくと、筒井さんはもともと俳優になりたかったのです。だから作家として売れ出してから劇団を立ち上げ、脚本もいくつも書いてきたんですね。90年代に入ってから筒井さんは本当に、本格的に俳優として活躍を始めたわけなのですが、その演技が巧拙はともかく(私にはよくわからない)、それは決して作家の思いつきでも単なる道楽でもないのです。
一番やりたいことを、ついにできるようになったわけで、羨ましい人生ですよね。
なんでサイトに検索機能をつけないのかというと、私はサイトを構成するファイルをみんなローカルに持っているので、ローカルで検索すれば用が済むからです。基本的にサイト内検索なんてものは、ページを動的に生成するサイトでもなければ意味がないと思う。何かを調べたいのなら、Googleなどを利用してWWW全体から検索した方がいいわけです。
私は接続回線が細いということもあって、特定のサイトの記事を元にちゃんと調べ物をする場合には、寝ている間にサイトを全部ダウンロードするようにしています。そうすれば、ローカルで自分の使い慣れた検索ソフトを使えますし、エディタへのファイルの取り込みなども簡単です。何よりダウンロードの待ち時間がないのがすばらしい。
私の場合は24時間接続し放題なのですが、テレホーダイ+ダイアルアップというケースでも、寝ている間にダウンロードというのは便利なやり方なので非常にお勧め。重い動画でも何でも、ストリーミングでない限りは大抵見れます。回線が細いなら、それなりに工夫すればよいという話。ダウンロードする時間と、読む時間をわければいいという発想です。
こういった発想の転換は、一種のコツのようなものですから、それと心がければ案外いろいろできます。あれもこれも一緒にやろうとするから手間がかかる。逆に、一緒にやればいいものを別にやるから無駄が生じる。……という展開でCSSデザインの利点を述べようと思ったのですが、以下省略。
もちろん、信じる者はバカを見ます。反例を確認したければ、ReadMeの下位サイトを見ていけば、そのうちに行き当たります。具体例を挙げようと思ったけれども、いろいろ差し障りがありそうですから、にゃごろう村は最後まで1日10〜40人しか訪問者がいませんでした、と述べるにとどめます。
この手の勘違いが消えない最大の理由は、ひとつには中堅サイトがつまらないことにあると思う。つまらない、といったって数百人は面白いと思っているのだからそれなりのものなんだけれども、とにかく100人が見て99人はつまらないと判断する程度なわけです。だから、「こんなもの、誰だって書けるだろう」という人が後から後からわいてでてくる。で、実際に簡単に1日200人の訪問者を獲得できてしまう人がたくさん(5%程度)いるわけで、それがまた話をややこしくします。
もう一点。アノレヲさんはかつて、ふつうに何も考えずに(というと語弊があるでしょうが)書いた文章が1日数百人の読者を集める人気を得たので、無意識の謙遜で「誰でもできること」と勘違いされているのです。そもそも少しのやる気と時間
だけではアノレヲさんのあげた5条件は実現できないという事実をなぜ見落としてしまうのか、と私などは思うわけです。ところが、世間には無邪気な方々がたくさんいらっしゃって、「たしかにこれくらい、簡単だよね」「そうだよね」と納得してしまうらしい。
不幸の再生産の構図がそこにありまして、簡単だ、簡単だと思いつつ、なぜかできない、「なぜだ?」という状況、それがアクセスアップ支援サイト(知らない人は知らないらしいですが、これは一大ジャンルとして実在します)には折り重なってよどみを作っています。ある程度、ちゃんとした数字を見せ付けられれば、1日200人の読者なんて、できない人にはできない数字だとわかるはず。しかしそれさえも、「頑張ればできる」という言葉が、じつは「頑張ることの難しさ」を愚かにも過小評価している錯誤に上書きされてしまい、ありもしない夢に現実が取り込まれてしまうことになりがちです。
成功者が苦労しなかったからといって、現在うまくいっていない人も苦労なしに同じことをできるはずがない。しばしば、きっかけがなかったばっかりに埋もれているサイトがあるわけだけれども、レアケースはレアケースなのであって、一般化して話してしまってはいけない。中堅サイトは100人が読んで99人がつまらないというけれども、弱小サイトは1000人が読んで999人がつまらないという。大抵の人はどちらもつまらないと判断するから、なんでこっちが人気あって、もう片方が人気ないのだかわからない。しかし、そこには大変な差があるのです。とはいうものの……。
本が売れた売れたといっても数万部でしかないから、99.95%の日本人はその本を読んでいない。よほどバカ売れした本でも100万部だから、99%の日本人は読んでいない。仮に全員にただで配ったとして、面白いという人がどれくらいいるかといったら、それでも1割に満たないでしょう。過半数の人は10ページだって中を読みはしない。
マーケティングが難しいのは、無関心の海を暗中模索しなければならないからです。売れた、成功した、当たったといっても、相変わらず99%の無関心がそこにあって、これがリサーチを破壊する強烈なノイズとなっているのですね。この妨害電波の前には、成功の種もくだらないアイデアもみな芥子粒のごとく小さく、ひ弱で、どうにも正しく価値を判断できない。プロでさえそうなのだから、まして素人がまともに判断できないのも致し方ない、というべきでしょう。
結局、何がいいたいのかというと、人気を得るために必要なのは、信じがたいことではありますが、内容だけだということです。どれほど多くの人がけなしても浜崎あゆみは売れていて、それはなぜかといったら彼女の歌が大勢の人をひきつけるからです。西村京太郎が売れるのも、売れるなりの内容があるからです。ひとつの証拠として。浜崎も西村も、売れるものと売れないものとで5〜10倍の開きがあります。本当に内容が無関係なら、この現象は説明できません。
それでも、理屈はどうあれ人はどうしても「何であんなものが人気を得るのか?」と思うわけで、だからみんな不幸なんです。どうしようもなく。
私がDIMEの話題を興味深く読みつつも概ね過小評価する傾向があるのは、世の中の大半の成功は99%の無関心を突破できないという認識があるから。みんなお釈迦様の掌上で走り回っているに過ぎない。
個人的リンク集を整理しました。旧知のサイトの移転、閉鎖などの情報を更新。復活するまいと思っていたサイトが、いつの間にか更新を再開していたりしたのは嬉しかった。知人のサイトのもう何度目になるのかわからない休止は、やっぱり残念だった。閉鎖したサイトは……まあ仕方ないね。
ところで、私の巡回サイトというのは個人的リンク集にある「最近の巡回先」+(入れかわりの激しい)2〜5サイトで全部です。相変わらず、巡回サイトは少ないままです。アンテナに登録してあるサイト、ということになるわけなんですが、ここしばらく20に達しません。
1971年当時、最高記録は8万4千ポンド(当時、約7260万円)だった。バイオリンの名器ストラディバリウスの中でも逸品といわれる「ブラント夫人」がロンドンで楽器商に競り落とされたものである。
91747円を預けると1年後に100000円かえってくる定期預金。
ストラディバリウスといえば、手塚治虫のブラックジャックでも取り上げられているので、読んだことがある方も多いかもしれない。嵐に巻き込まれ雪原に不時着した飛行機に、ブラックジャックとバイオリン奏者が乗り合わせていた。外は嵐。荷物を機内に置き、外のキャンプで救援を待つ明かすことになる。ブラックジャックは手術道具を機内に置くが、バイオリン奏者はストラディバリウスを抱えて外へ出る。案の定、ストラディバリウスは吹雪に飛ばされて夜闇の中へ消える。深夜、バイオリン奏者はストラディバリウスを探しに雪原へ……。
人に聞く前に自分で調べたらどうか。Google検索で1位に登場するのだから。
当サイトでは、記事毎にid属性を用意していません。私がそれを必要としていないからです。当サイトの記事を参照したい方は、記事を転載してください。そうすれば、リンク切れや、私がこっそり文章を書き換える、削除するなどの問題から解放されます。
なお、転載時の注意はいろいろあるのですが、無視しても結構です。引用と称して転載するなど、いろいろ逃げ道はあります。
どんな扱いをしてもせいぜい私が備忘録でピーガー怒るだけのことで、それ以上の問題にはなりませんから安心してください。著作権法違反は親告罪なので、私が訴えることがありえない以上は、あれこれ心配する必要は無いということです。
システムは慣習や規範とセットです。あなたはほかの件でも、あたかもそういうシステムに実装的に可能なことと、理念的、慣習的に許容されていることを混同している。実装的に可能でそのことを実装レベルで不可能にしていないということは、かならずしも慣習的理念的にそういうことをしていいとみなされていることにはならない。
基本的に、このレベルで私とjounoさんは意見を異にするわけです。私は慣習や規範を他人に守らせたければ、システムで対処するしかないと考えています。無断リンクを禁止したければ、サーバをあれこれ設定しなければならないし、殺人を抑制したければ刑法やら警察力やらを整備しなければならない。
システムを深く理解し自分で変更を加えることができる人は少数でしかなく、大多数の人にとってはシステムは与えられたものをいかに活用するかが問題となっています。そうしたシステムを利用する立場からいえば、まさに「まずシステムありき」なのです。システムは、現代に残された唯一の、ひとつの思想を注入することができる手段です。(それは言い過ぎ)
誰もがjounoさんのおっしゃるようなTrackBackの文化をもっているわけではなく、また賛同するわけでもありません。現にblogツールの使用歴の長い加野瀬さんさえreferやサイト巡回から、関連があると思ったページを見つけた時、TrackBackをメモ代わりに使って
いました。ひとつの慣習や理念が人々に共有されているという状態は、WWWに公開された場では幻想でしかありません。
ひとつの慣習や理念に基づく行動を、例えば99%以上の人に強制するためにはシステム的な対処をする他ないのです。100%完璧に、というと非常に大変(ふつうは無理)ですから、実際問題としては過半数、80%、95%といたあたりに状況に応じて目標を設定して、対処することになりましょう。(「殺人を100%止めるため、全国民を牢につなぐシステムを構築しよう」とはならない。全国民の指紋を登録しようという意見さえ出ない。目的はある程度まで達成できれば御の字なのです)
ARTIFACTのTrackBack登録フォームは、誰もが勝手に匿名でTrackBackを登録できることをあからさまに体現しています。あれを見れば、少なくともARTIFACTに登録されたTrackBackを、短絡的に著者に登録されたものと考えるべきでないことはすぐにわかります。わからない人がいるなら、その人がバカなのです。もしバカな人が日本では多いのだとしたら、日本のメディアリテラシーはまだまだですね、と私は書きました。
例えば、同じ「掲示板」といっても、IPとリモートホストが強制的に表示される掲示板と2chでは世界観が異なります。どちらも掲示板には違いないからといって、ひとつの掲示板文化・慣習・理念を両方の利用者に求めることができるでしょうか? (IPとリモートホストが強制的に表示される掲示板も、本質的には2chと変わらないことに注意。ここでは表面的な違いが重要なのです)
jounoさんはTrackBackが登録者を認証しないことをご存知だったけれども、ARTIFACTでは第3者がTrackBackを送る可能性がとくに高いことを見抜けなかったのでしょう。だから驚いたのではありませんか。TrackBackの技術仕様書に登録者認証は規定されていないから、基本的にどんなTrackBackでも「なりすまし」(という言い方自体を私は批判しているわけですが、一応)は可能だけれども、表面的な実装の仕組み次第で「なりすまし」の出現率は大きく上下します。ARTIFACTでは明らかに「なりすまし」の出現率が高いことが予想されます。そうである以上、jounoさんの驚きに私は共感できません。2chで、IPとリモートホストが強制表示される掲示板と同様の文化を期待するのは馬鹿げている、それと同じことだといいたいのです。
TrackBackはTrackBackだ、これまでのTrackBackにはこういう文化があったのだから、それに配慮すべきなんだ、というようなjounoさんの意見には賛同しません。後発であれ2chは2chであるように、ARTIFACTのTrackBack登録フォームを見れば、新しい使い方、使われ方がそこに提案されていることは明らかです。加野瀬さんにその意図があろうとなかろうと、システムが雄弁に主張しているのです。
これまでたまたま、著者以外がTrackBackを送る方法が一般人から見て隠蔽されたシステムが普通だったから、jounoさんがおっしゃるような文化しか存在しなかったのでしょう。ARTIFACT型の、登録者の匿名性が一般人にも理解できる登録フォームが数を増やしていけば、当然、新しい文化が生じます。はからずも加野瀬さんやishinaoさんは、既にjounoさんのいう文化に反するTrackBackの使い方をなさっていました。著者以外が登録するTrackBackに、ニーズがあったということです。だから、今後どんどん、ARTIFACT型のTrackBack実装が広まる可能性はありますよ。
ARTIFACT型のTrackBack実装は、技術先導の需要開拓につながる可能性があります。既にその萌芽はあると思う。単なる登録フォームの見せ方の問題ですが、匿名掲示板が投稿者の情報を隠すだけで新しい需要を生み出したように、技術的には取るに足らない違いであっても、文化的には重要な違いを生み出しうるのです。
徳保さんはシステムを所与として考えすぎです。もちろん、トラックバック以前にトラックバックに関する概念のほうがあったはずです。こういう使い方をするこういう機能がほしいというのがまずあって、それが実装されるんですから。その具体的な実装が、その最初にあった概念とかならずしも一致しなかったからといって、それは実装上の技術的都合というものです。
ようするに、私の反論はこうだ。
製作者がこう使え、という通りに使う利用者ばかりではない、ということ。利用者は勝手に自分に都合のいいようにモノを使う。そして製作者は少数派であり、利用者は多数派だ。ほとんどの人は製作者にならない。TrackBack文化のようなものが本当にできあがるのは、TrackBackが登場して以降のことだ。実装ミスで製作者の意図が反映されないシステムを世に出してしまったとき、ひょっとしたら利用者はその実装ミスを喜ぶかもしれない。そして結果的に、実装ミスを修正した製作者が利用者に呪われることになるかもしれない。
視覚系のWWWブラウザを例に考えてみる。もしマイクロソフトが、「HTMLはやっぱりStrictでなきゃいけないね」とかいってフレームへの対応をやめ(もちろんnoframes要素は解釈する)、font要素も無視し……、というようなStrictモードをデフォルト設定にしたIE7を発表したとして、果たして喜ばれるだろうか? W3Cの主張に共感する私のような人間は「うはははは!」と楽しくなるかもしれないが、大半の人は猛然と怒りを表明するに違いない。
まあ、ブラウザの場合は、HTMLを考えた人々と、それを扱う道具を作った人々が別の考えを持っていたという話だからだいぶ違うといえば違う。しかし仮に、マイクロソフトはネットスケープへの対抗上、嫌々おかしな実装を繰り返して利用者に迎合してきたのだという物語を導入したら? それに、HTMLを考えた人々が作ったブラウザがなぜ人気を得られず、変なソフトばっかり爆発的人気を博したのか、ということを考えるなら、私のいいたいことは伝わると思う。
「サイトばれ」で閉鎖したサイトがありました。私も某企画が縁で楽しく拝見させていただいていたので非常に残念に思っていたのですが、リファラを辿っていったら新サイトに到達。で、こういうのって紹介が難しいですよね。元***が新しいサイトになって帰ってきました、とも書けないし。ばれたということはどこかから管理人氏の知人がサイトを知ったのでしょうが、その知人氏が当サイトの読者かもしれないわけで。
更新再開、即サイトばれ再閉鎖というパターンはどうしても避けたい。
あ、そうか。紹介しなければいいんだ。簡単なことだった。
ARTIFACTのTrackBackは、自由度の低いwikiのようなもの。誰でも勝手に、適当なリンクを作成できる仕組みなのだ。テンプレートのハッキリしているコメント機能のようなもの、といってもいい。スクリプトを使ってwikiや掲示板に自動で宣伝書き込みをしていく業者がいるが、ARTIFACTのTrackBackも当然、そうした迷惑行為の標的となりうる。
運用や実際の認識において、自分のサイトから自分が送るということを前提にしたシステムだと思います。つまり、誰でも別のサイトのものもおくれるという認識は定着しておらず、間違いなく、本人が送ったものと認識されます。本人が送ったものとみなされない文化や実情が前提にあれば別ですが、できるということと、それが想定された使いかたであるということは別です。つまり問題というか、今後コンセンサスがどうなるのか、考える必要があるのは、現在では、本人が送ったとみなされ,本人以外がおくったら「なりすまし」とみなす文化、前提、共有の認識がある、ということと、そういうことが実装レベルでは可能であるという乖離です。
ARTIFACTのTrackBackの仕組みをどう見たって登録者認証の仕組みが用意されていないし、そもそもそんな機能が検討されているという話も聞いたことがない。少なくともjounoさんの考えるTrackBackと、ARTIFACTが用意しているTrackBackはまったくの別物。
もちろん、jounoさんが勘違いしていたのなら、同じ勘違いをしている人はたくさんいるのだろう。ただ、あの仕組みを見て自分のサイトから自分が送るということを前提にしたシステムだ
と感じるのは、ちょっと注意力に欠けていると思う。
日本のメディアリテラシーはどうなっているのだろうか。なんて偉そうなことを書いてみたりして。(しかも言葉がズレている)
デザインがひどい、HTMLがアレだ、とかそういったことでは最悪クラスの超人気サイト。肝心なのはコンテンツなんですよね。サイトの人気を向上させようと思ったら、もうそれしかない。どれほど他に欠点があってもいいから、何はともあれ内容が大事。私のアドバイスなんかもそうなんだけれども、基本的にサイト批評の類はサイトの人気向上には役立たない。大勢に嫌われないサイト作りしか教えないからです。でも、どんなコンテンツを用意すればいいのかなんてことは、おいそれとわかるものじゃない。もしホントにバッチリわかるものなら、私は転職してコンサルタントにでもなりますよ。という話は以前も書いたなあ。
今年に入ってからというもの、備忘録は話が延々とループし続けている……。
どういう経緯か忘れたんだけれども、ふと気になってMOTHER1+2の情報をあれこれ集めてみました。これほど評判のいいゲームソフトも珍しい。といっても私はもう10年近くゲームをやっていません。ドラクエ5あたりが最後だった(これも途中は手抜きして弟に進めてもらった)ような……。
私は何せ鈍いので、アクションゲームは全然ダメ。スーパーマリオブラザーズでさえ、ついにクリアできませんでした。そして自信満々だったシミュレーションゲームもからきしダメ(このときは落ち込みました)。結局、RPGしかできないんだけれども、FFのアクティブタイム何とかシステムは最悪。グダグダ考えているうちにボカスカやられてしまう。それとクリアまでに40時間以上もかかるゲームはかったるくて、スーパーファミコンの時代になってからはほとんど何もやりませんでした。
でも、弟がゲームをやっているのを見ると、なんか楽しそうなんですね。それで、よせばいいのに手を出す。魔法とかいろいろ覚えるのは面倒だし、洞窟に入れば道に迷うし、ホントどうしようもなくてすぐに後悔することになる。それでも人が楽しそうにプレーしていると、やっぱりやってみたくなったりするんですね。
ところが、中学生の頃に何か転機があったようで、とうとう自分でゲームをやろうとはしなくなったわけです。でもゲームの情報なんかはけっこう好き。テレビや映画と同じ。自分は全然見ないんだけど、情報だけは好きというアレ。で、今回はMOTHER1+2の情報をひたすら漁っていたというわけでありまして……。
いやー、ほぼ日をナメてました。まさかね、MOTHER1+2関連だけで1日かかっても読み終わらない大量のコンテンツが用意されているとは。Nintendo64で発売を予定していたソフト、MOTHER3の製作中止について語る長い長い座談会(URI失念)など、ぞくぞくしながら読みました。で、すごく面白そうだなあと思ったのですが、実際にやってみたら多分、いや、きっとすぐにかったるくなってしまうことは目に見えているので、面白そうだなあ、というだけで今回もまた何もしないような気がする。どんなに面白そうな映画も見に行かない、DVDのレンタルもまったくしないというのと同じ。というか、DVDなんてレンタルしたって再生機もないし、そもそもテレビが部屋にない。という話は以前も書いたなあ。
今年に入ってからというもの、備忘録は話が延々とループし続けている……。
だから、そういう風にTrackBackを運用したいならば、それ相応のシステムを組むべき。つまり、登録者をIDとパスワードで識別し、ちゃんと表示するようにすればいい。ARTIFACTの現行のTrackBackは、誰でも勝手に匿名でTrackBackできる仕組みなのであって、それをTrackBackと呼んでいるのだから勝手にTrackBackが送られるのは不思議でもなんでもない。そういう風に運用されるのが当然だ。
TrackBackを送ったのがこの場合加野瀬さんであり、TrackBackを送られる側のサイトの書き手である。だから、加野瀬さんにとっては、「合図」と「単なるメモ」の区別がつくかもしれない。しかし、読んでいる人には分からない。読んでいる人はTrackBackの送り手はTrackBackの内容のサイトの書き手と同一であると思ってしまう。
そんなことを思うのは愚かな閲覧者だけ。ARTIFACTのTrackBackの登録フォームを一目見れば、誰でも匿名で登録できることがわかる。勝手に自分の思い込みを持ち込んで、これはこういうものだから**に違いない、と考えるのは浅はか。あのシステムを見れば、誰もが勝手に匿名できるように作られていることは自明なのであって、
TrackBackを送る側のサイトの書き手ではなく、その他の人間が勝手に送ったのでは、「『積極的に反応しました』の合図」と「言及したサイトの単なるメモ」とが区別できなくなる。
などというのはないものねだりに過ぎない。そういうことを意図しないシステムなのだ。もちろん、そのメリットはある。読者がTrackBackの登録を追加する敷居が低いから、管理人が望めば、ボランティアを募って関連記事を毎日たくさん集めて、日々の話題の中心地のようなサイトを構築していくのに向いている。また、管理人自身がTrackBackを登録する際にも精神的な敷居が低いだろう。
加野瀬さんがそのような活用法を望まないなら、現行のTrackBackの仕組みは採用するべきではない。今回は予想された事態が生じただけのことであって、にもかかわらずjounoさんが驚くのが不思議だった。要するに私がいいたいことは、tDiaryなどのTrackBackとARTIFACTのTrackBackは全然システムが違うので、TrackBackという文字だけ見て判断するのは馬鹿げている、ということ。少なくとも、ARTIFACTのTrackBackはjounoさんの考えているようなTrackBackの定義に反するシステムだ、ということはすぐに気づいていいはずだ。
「がんばれ山下監督」を読みふける。忙しい人は横浜・山下監督のガイドラインをどうぞ。
folio vol.01に"いろは"の先のCSSを載せたときには知らなかったのですが、平成15年3月19日の備忘録で紹介したWeb Site Design Vol.7所収の森田雄さんの記事が8月25日にWWWで公開されていたんですね。私がリニューアル講座でやりたかったことを、プロが書いてくれている。この記事の劣化コピーを無料で公開するのが、今年の私の目標ということ。うう、情けない。
なんて書いていたわけですが、まさかこんな展開が待っていたとは……。ま、この手の記事が増えるのは何も悪いことではないので、私も月1回のペースでコツコツ書いていきます。
ところで、CSSコミュニティーをグルグル回ってみると、けっこう森田さんの記事、よく紹介されていますね。でも雑誌をちゃんと買った人は滅多にいません。1380円って、そんなに高いのでしょうか。私は金持ちなので、発売直後に入手しました。お金は天下の回り物。余裕がある限りは、興味深い記事にはお金を払うべきだと思います。好きな作家の本は新刊で買う、とか。岡田斗司夫「ぼくたちの洗脳社会」に感銘を受けてからというもの、好ましい商品は意識的に支援しています。
金持ちといっても、私の手取り年収は200万円強。過半は実家へ入れるから、実感としての可処分所得は年80万円程度。けれども、寮暮らしだから、住居費と光熱費、平日の食費はタダ。駐車場がなく、四畳半の部屋にコンセントが2つきりだから、車と家電の出費がない。これだけ条件がそろうと、80万円で金持ちになれるわけです。1380円が高いといっている方の多くは、おそらく収入は私より多いと思いますが、毎月のお小遣いが6万円という優雅な生活は望めないというわけでしょう。
一点豪華主義を掲げる方は多いのですが、お小遣いを豪華にするというのは、ひとつ有力な選択肢ではないかと思います。中堅社員の先輩方に聞くと、月2万円程度というケースが多いわけです。入社2年目でその3倍。妙な優越感を味わえます。昼休みにジュースを買うとき、小さい缶なのに値段が他と同じものを買うとか。飲み足りない、とかいってもう1本買ってみたり。(最悪)
ところで、最近一部で話題の三宅さんがここでも登場。従来通りの意見を述べていらっしゃるわけですが、私は結論の設定を誤ったかと思いました。三宅さんの日記にコメントをつけているいわいさんがおっしゃる通り、結論の飛躍を補間する言葉が足りないようです。さらにいえば、そのような(飛躍を補間する)言葉が存在するのかどうか、という疑問もあります。とすると、穏当な結論を導くべきではなかったか。
私は、つまらない悩みを解消するという意図も込みで、著作権を主張しませんという宣言をしています。三宅さんがおっしゃるように、WWWで著作権を厳密に保護するのは困難であり、まじめに取り組むと労多くして実り少なしという現実に悩まされることになります。WWWへ情報を公開するならば、ある程度の著作権侵害はどうしても防ぎようがないのが現実です。そこに、コペルニクス的転回が誕生する余地があります。最初から著作権侵害を認めてしまえば、問題は根本的に解消され、悩みがなくなるじゃないか、というわけです。著作権を守ったところで物質的な利益は何もないわけですから、頭を切り替えて精神的負担を解消した方が幸せになれるのです。
しかし、世の中には著作権をどうしても守りたい方々が非常に多い。そして彼らには、損得勘定による説得が通じないことが少なくない。いや、この表現は不正確ですね。彼らは著作権を完全に保護することの不可能は認めますが、ある程度でも著作権の侵害を減らすことができるなら、それを無意味だとは考えません。つまり、完全に著作権が保護されなければ不愉快だ、というわけではない。著作権の侵害は認めません、と明記すればほとんどの人は著作権侵害を控えるのだから、転載も改変も自由というより、こっちの方がいい、ということになります。
ちょっとしたパクりに大騒ぎする人が多いので、私は「完全に著作権が保護されなければ不愉快だ、というわけではない」というあたり、大いに疑問を感じるのですが、それをいってもダメなんですよね。大騒ぎすること自体、「見せしめとしての効果を狙っている」といわれれば、ホントかなあと思いつつも、まあ納得するしかないというか。たしかに、すべての小さなパクりに気付くことは不可能なのだから、気付いたところを全て糾弾しても、「完璧な著作権保護なんて夢を見ているわけではない」という論は崩れない。
話がわき道へそれてばかりでしたが、加野瀬さんの疑問はこれで解消されるのではないでしょうか。
吃驚した。森田雄さんは、興味の範囲が一部で私と被っているらしい。
私は文字サイズ12pxが一番読みやすいので、WinIEではインターネットオプション→ユーザ補助→Webページで指定されたフォント サイズを使用しない&表示→文字のサイズ→最小と設定しています(私の環境ではこれで文字サイズが12pxになる)。三宅さんのサイトの本文も、もちろん文字サイズ12pxで表示しています。
考えてみると、私は文字サイズが小さくてムカつくことは滅多にありません。IEのデフォルト設定でHTML文書を閲覧していると、ほとんどの場合は文字サイズが大きすぎてイライラします。私がいつも指定の文字サイズを無視するように設定しているのは、迎賓館裏口とか福島中年探検隊のような、大きな文字サイズに固定しているサイトが巡回先に多いからです。自宅以外で閲覧する場合も、必ず文字の設定はやります。席を立つ前に元に戻しておけばOKでしょう。
ところでGecko系のブラウザの場合は、標準の文字サイズを12px、最小の文字サイズも12pxに指定しています。わかりやすいし、確実な方法なので、私はこの設定方法が好きです。でも最近ほとんどGecko系を使わないのは、ユーザスタイルシートを簡単にON/OFFできないから。GeckoはIEを見習って、なんでもGUIから(も)設定できるようにするべきだと思う。
W3CがなぜCSSに文字サイズ固定を用意したのか、考えたことがない人が多すぎるように思う。
IEは固定された文字サイズを解除できるのに、「できない」と言い張る人も多すぎる。
これまでに何度も書いてきたことなのですが、これからも何度も書くことになりそうなのが残念でなりません。
読者の方からメールで質問があって、長々と返信を書いたのですが、そのときに途中まで書いて没にした文章がこれ。前後が抜けているので唐突に始まって唐突に終わりますが、これもメモということで収録しておきます。
余白もフォントいじりもCSSで再現可能ですが、CSSを正しく使おうとする限り、HTMLを適当に使っていたときのような気楽さ、自由さは再現できません。なぜなら、CSSに可能なことは、あくまでもHTMLによる文書の構造化の様子をプレゼンテーションすることに限られているからです。
具体例を示しましょう。
文中の「ある単語」を、黄色の大きな文字にしたい、と考えたとします。地の文と差異をつけるのですから、これは強調ということになりましょう。そこで、「ある単語」をem要素としてマークアップします。このときしばしば問題となるのは、既に先の文章で、赤い太字のためにem要素を使ってしまっている、ということです。強調に使える要素はem要素とstrong要素しかないので、困ってしまいます。
仕方ないのでem要素をclassで分類していくのですが、この手続きの面倒くさいことといったらありません。
font要素で装飾していた頃は、そのときの思いつきで自由に装飾ができたのに、CSSを正しく使おうとすると面倒でたまらなくなります。しかも、classをclass="yellow"なんて指定してしまったら、リニューアルの際にHTMLに手を加えないでいいというCSSの利点もなくなってしまいます。(リニューアル後には配色も変わるでしょうから、yellowのままでは困るでしょう)
こうしたケアレスミス(実際には本質的な理解不足なのですが)はCSSの導入後にしばしば付きまとう問題で、「なんでちっともサイト作成が楽にならないのだろう?」と悩まされることになります。
結局、そもそもCSSはHTMLのオマケでしかないのだけれども、これまでHTMLで装飾をやってきた方にとっては「HTMLとは何ぞや」という部分がスコーンと抜けていて、装飾のことしか頭にない。だから、「正しいやり方」が持っている不自由さが、たまらなく窮屈に感じるはずです。
HTMLは不自由なものです。主な要素は50に満たないわけです。強調は2種類しかないし、本文周りの要素はほとんど見出しと段落と箇条書きしかありません。非常に制約がきついのですね。
青い色にしたい文字と黄色にしたい文字、なぜ色を変えたいのか、本人もよくわからない場合が多いはずです。「色を変えたい理由に従ってclass名を与えよ」なんてアドバイスがよくありますが、それらをいちいち考えなくてはならないなんて、馬鹿馬鹿しいと思われる方が少なくないでしょう。
人間の欲求はたいてい言語化されないところにあって、多くの思いが陰に隠れているものです。それをたった50程度の要素に分類整理して構造化しようというのが、無茶な話なのです。
もちろん、HTMLの制約の多さには意味があります。HTMLは人間ではなく計算機が文章を処理するために用意されたものであって、だから逆に分類があまり微細では困るのです。例えば、見出しだけ抜き出す、ということを考えましょうか。HTMLではh1〜h6要素が見出しですが、人間の考える見出しは、そんなに単純なものではありません。印刷物などでは実に多様な見出しの表現がありますが、人間は「無数にあるパターン」からほぼ正確に本文と見出しを分離することができますね。「無数のパターン」を計算機に覚えさせることは不可能です。そのようなプログラムは無限の長さのコードを持つことになってしまいます。だからHTMLでは見出しを単純化して、たった6種類の要素に限定したのです。
けれども、人間は見出しが6種類しかないのでは満足できませんでした。だから、HTMLは本来の使い方をされませんでした。HTMLの個々の要素が持つ本来の意味は無視して、ブラウザの表示結果に意味を持たせたのです。無数のパターンを持つ表示結果に、自分の思いを込めたのです。
人間がこの表現欲を抑制しない限り、結局はCSSなど使っても、HTMLによるデザインの抱える問題を根本的に解決することなどできません。強調表現が2種類では足りないのだといえば、どんどんclassが増えていきます。ちっとも作業は楽になんかなりません。
興味があるのは、前にも書きましたが、ネットにおけるテキストサイトの孤立感がどうして生まれているのかということです。それは内部の方々の考察を読んでもわからなくて、勝手に考えています。
それは簡単なことでしょう。テキストサイトだけがサイト間のつながりを強く志向しているからです。
Yahooディレクトリを辿ってみれば明らかなように、テキストサイト以外では、メールと掲示板とメッセンジャーが意見交換に類する交流のすべてであり、サイトのメインコンテンツが意見交換に供されることがない。サイトの根幹に関わる部分に交流が入り込んでいるテキストサイトが、交流に渇望し、孤立感をしきりに訴えるのは、当然のことです。他のジャンルのサイトがテキストサイトのような孤立感を訴えないのも、当然のことです。
本当は、どんなジャンルのサイトだって孤立しています。狭い世界に細分化されて、お互いに言葉が通じない状況になっているのです。けれども、そもそも細分化されたジャンルを超えた交流を志向しなければ、それでなんら困ることはない。寂しく思うこともない。小さな世界がそれぞれに孤立している現実を見なければ、あるいは見ても「別にそれでいいんじゃないの」と思えるならば、問題は生じない。
孤立そのものは問題ではないということ。それを寂しく思うとき、はじめて問題が生じるのです。
ところで、私は加野瀬さんのテキストサイト界隈の定義には疑問符をつけたい。現在のテキストサイト界というのは、サイトの管理人の人間関係に注目しているサイト群
という定義を採用すると、それは孤立感を問題にしているグループのごく一部に過ぎないことになります。加野瀬さんご自身が紹介したネットミステリ界の現状に関するごく私的かつ身勝手な一考察などは、私にいわせればテキストサイト。メインコンテンツで意見交換を始めてしまうのは、みんなテキストサイトの一派。そこまで定義を広げてもテキストサイトは少数派だから、「何でもかんでもテキストサイトになってしまう」という不都合はありません。そのうえ、ネットにおけるテキストサイトの孤立感
という発言もすんなりと意味が通るわけです。(注:加野瀬さんの定義は狭すぎて、テキストサイトではないのに孤立感を訴える例が多くなりすぎます)
このところ、私の見る先々でいわいさんという方の書き込みに出くわす。何者なんだろう、とか思ったり。
夏が終わりましたね。
いつものようにたくさんのサイトが閉鎖されたわけですが、個人的にはLasting Blueが閉鎖したのが一番大きかったかな。にゃごろう村の初期からのお客さんで、村に影響されてサイトを開設。サイト名なども転変を重ねたけれども、管理人のみけさんはその後、サイトのお客さんとご結婚なさって徳島から東京へ。この展開には驚きました。なんだか凄いことに関わっちゃったなあ、と思ったり。
もうちょっと時間と体力のあるときに、ちゃんと紹介したかったのですが、そんなことをいっていると次の週末まで無理かもしれないので、とりあえず。(だいたいこんなことを書くと、早速翌日あたりに暇ができたりしますね)
書きたいと思いつつ、どうしても書けなかったリニューアル講座("いろは"の先のCSS)を連載中です。結局、〆切がないと書けない文章だったんだなあ、と思いました。散発的に思いついたことを書くだけなら、例えば先月24日の更新を見ての通り、ずいぶんたくさん書くこともできたりします。けれども、ある程度まとまった内容の文章を系統立てて語っていくのが、私は苦手なようです。いつまでも目次を考えているだけで、ちっとも本文が書けない。
今回、月1回というペースで〆切が設定された場所を与えられたのは、たいへんありがたいことでした。別に原稿料が出るわけではないのですが、他人の手を煩わせるシチュエーションが、私には必要なのだと思います。
ところで、この folio という企画は、簡単にいえば淡いつながりのあったりなかったりする人たちが、普段とちょっと違う文章を書いたり書かなかったりするという曖昧な試みです。参加者各氏のサイトであまり告知されていないので、目次を見てみて「あれっ?」と思う名前があるかも。細々と、地味にやってます。私としては、リニューアル講座を最低3回、できれば6回くらい連載したいので、どうか温かいご支援をくださいますよう、よろしくお願い申し上げます。
私は感想とか貰わなくても平気な人間なのですが、他の方はそうでもないようですので、できれば他の執筆陣に感想のメールなど出していただけると私としては嬉しいです。私一人では企画が続かないし、企画が続かなければリニューアル講座も書けませんので。