誹謗中傷の自由はない/W社問題Vol.2

徳保はレイプ魔です[2004年2月3日]

悪徳商法?マニアックスを批判した記事Google と 悪徳商法?マニアックス存続してほしい 悪徳商法?マニアックスに検索エンジン経由でそこそこ大勢の方がいらっしゃっています。けれども、結局のところそんなに注目されたわけでもなくて、そのせいかどうか、最近また私の提出した論点(の一部)が別の方から再提出されて話題になっているのを見て、何となく悔しい思いをしたり……。

何か書くたびに反応があるのも面倒くさいのですが、ときどき「何か反応ないかな?」と期待しながら書く記事もあるわけで、まあ読者と同様に筆者もまた身勝手だというだけの話なんですけれども。

閑話休題。今回はちょっと人目を引く見出しを付けてみました。書き出しがふつうなのでインパクトも半減していますけれども、そろそろ本題に入ります。

仮に「強姦野郎?マニアックス」というサイトがあって、あるときそこの掲示板に「徳保はレイプ魔ですから、信用しちゃいけません」という書き込みが登場したとしましょうか。

当然、私は「誹謗中傷の発言は削除せよ」と申し入れるわけですが、管理人氏は「議論の上で最小限の削除に応じるかどうか決めましょう」と煮え切らない返事。私はぶち切れ、法的手段に訴えることを通達、すると管理人氏は「徳保の情報を募集しています!」と大告知を打つ。これと平行して、私は裁判の前にできる限りの防衛手段をとろうと考え、Googleに名誉毀損を訴え、「強姦野郎?マニアックス」の徳保に関連した文書すべてをを検索インデックスから削除してもらう。

こういった事例の場合、今回散見された「違法かどうかは裁判所だけが決められるのだ」という愚論は出てこないでしょう。そういう問題ではない。

「判決が出るまでは誰にも違法かどうか分からないので、誰がどんな暴走をしても許容するべきだ」という意見に賛同する人は滅多にいないはずです。何でもかんでも裁判所というのではなくて、個々人が「これは違法じゃないかな?」と思ったら、自粛するなり、あるいは敢えて実行するならそれなりの覚悟を持ってするべきである、ということです。(少なくとも今回、発端となった投稿が典型的な憶測記事だったことは既に指摘した通り。判断に迷う例ではなかったのです)

まあ、2ちゃん裁判の結果を見るに、6000万円の賠償請求が全額認められることはないでしょうが、数百万円規模にはなるかもしれません。

(少なくともこの件について)ウェディングは裁判に勝つ算段があって法的手段に訴えているのだろうと私は考えます。悪徳業者・悪徳商法という言葉には、非常に強い悪印象があります。広義の悪徳商法はまったく合法な商売の一部も含みますが、だからといって人様の合法な商売を名指しで公然と悪徳呼ばわりして胸をはっていいというのは奇妙な話です。法の下の平等はどこへ行ったのか。

Google と 悪徳商法?マニアックスに書いた通り、そんなことが許されるなら報道記者は苦労ないのであります。オウム真理教の事件が起きたときに、「なんであんなもの、とっとと潰さなかったんだ」という意見がありました。坂本弁護士一家が失踪してからというもの、たしかに大半の日本人はオウム真理教を疑っていました。けれども、決定的な証拠がなかった。それでも「潰すべきだった」のでしょうか?

もし、平気でその一線を越えることが許されるような国が存在するとすれば、それは無法国家です。

3行目に自分の名前が登場しないと思い込んでいる人が多過ぎます。何度でも書きますが、もしGoogleが憶測で他者を中傷する記事を、クレームがあったにもかかわらず放置するとすれば、私はそれこそがっかりします。そんな不正義が許されていいのか、と考えます。言論の自由はありますが、誹謗中傷の自由はありません。非常に単純な話ですよ、これは。

没稿[2004年2月8日]

僕の基本的な考えは「あまりモノを言うのにビクビクしながら生きる世の中は嫌だなあ」ということだ。だから、何となく訴えられた方に心情的には肩入れしている。

「善と悪」、「緩さと厳しさ」、「オープンとクローズ」、「公開と囲い込み」、今起きているいろいろなことがこれらをキーワードに語れるような気がする。今、時代の流れは「クローズ」なのである。その源流がどこにあるか、僕は知りたい。

少し違う方面から話を始めたい。

最近になってまた儀礼的無関心の話題が再燃している。ひっそりとサイトを運営していきたい、という方は少なくない。「アクセスは多い方がいい」と思っている方であっても、客層や訪問者の増えた理由を問わないケースは珍しい。意想外のリンクによる訪問者増を望まない人は、けっこう多い。

意想外の訪問者増に対し、多くの方は何もしない。そしてしばらくすると、訪問者数はいつも通りになる。やれやれ、というわけで、何もかも元通りになる。しかし時には、当該コンテンツを消す方がいらっしゃる。それは予定通りの行動かもしれないし、あるいは気が動転してのことかもしれない。いずれにせよ、コンテンツが消えて悲しむ方がいて、儀礼的無関心ということを言い出した。

WWW に無制限で記事を公開したら、意想外のリンクというリスクは避けられない。だから、何らかの技術的な方法によって、適当な制限を試みようという意見がある。ここしばらく、技術的障壁を低くしようという方向で検討が進んでいる。リスクの存在を認識しつつ、適当な対処法がないために困っていた方には朗報となろう。だが、これは根本的な解決策にならない。そもそもリスクの存在を失念している方が多いからだ。失念の理由は3通り考えられる。

  1. そもそも「意想外のリンクによる訪問者増」という状況がありうることを知らない
  2. 「意想外のリンクによる訪問者増」という状況がありうると知ってはいるが、自分がそうなる可能性を、はなっから否定している
  3. 「無断リンクお断り」などと注意書きして、これで安心だと思っている

意想外のリンクによる(驚くほどの)訪問者増を経験するのはレアケースだ。その最大の理由は、たいていの人は(意図しない)大きな需要を喚起する記事を書くことができないことだ。8割方の個人サイトは、徹頭徹尾、零細であり続けるし、大半の個人サイトは意図しない訪問客を得ることがない。こうしてみると、ふつうの人はリスクを失念しても何ら問題ない。それどころか、余計な悩みを持たずに済むのだから、むしろ賢い生き方かもしれない。

未完


私は12月4日にこう書いた。(ひとつの価値観に基づく)ノーリスクの追求は、大きな利益の逸失につながる、と。「大人なんだから、人の嫌がることはやめようよ」なんて子供騙しはもう、うんざりだ。それはお互い様ではないのか。

未完


WWW に無制限でコンテンツを公開すれば、その後、そのコンテンツがどのように閲覧されるかについてコントロールすることはできない。しかし多くの場合、コンテンツの閲覧のされ方は概ね作者の予想の範囲内におさまる。これが錯覚の元凶で、多くの人が、ありうるリスクが顕在化したときに慌てる。そのとき初めてリスクの存在に気付く。さらに、怒ったりもする。公開したコンテンツが誰でも閲覧できる状態にあること、誰でもどのコンテンツにもリンクできることについては、けっこう多くの方が認識しているようで、だから「リンクフリー」とか「リンクはトップにしてください」といった「リンクポリシー」を謳っているサイトがたくさんある。

未完



思いつくままにいろいろ書いてみたけれど、なんか、まとまりそうもないので、放り出します。(うわー)


敵[2004年2月12日]

「自分は矢面に立つ気はさらさら無いが、悪口は書かせてもらい、けつは全部プロバイダに持ってもらう、プロバイダが逃げやがったら許さん」という主張をなさった方は存在したのだろうか。という問いの答えに近いのが Beyond さんです。Google に検索インデックスから削除されては悪態をつき、プロバイダから決断を迫られてはどこか良いプロバイダは、無いものでしょうかと書く。もちろん、Beyond さんは正しいことしか書いていないつもりなのだから、そうした反応は当然です。

それはそれでいい。世の中にはいろんな人がいるんだから。ただ、「うんうん、そうだそうだ」と賛同する人がちょっと多過ぎないか、と思いました。Beyond さんと異なり、Google にも同情的な人は、たしかにたくさんいました。しかし、Google の判断を歓迎する声はとんと見かけなかった。少なくとも、先月23日の時点ではそうでした。多数派ってのは怖いよな、と思います。たいていのトピックについて少数派になる私のような人間にとって、これは(いつものこととはいえ)憂慮すべき事態です。

「はてな憎し」「google憎し」的な事を言っている方は多くありませんが、このようなある種の(違法性の高い)言論に対する弾圧について、「残念に思う」人は多かったといってよいでしょう。ishinao さんとの違いは、私が今回の事件の顛末(まだ続きがあるかもしれませんが)を積極的に肯定していることです。

話を拡散させますと、三浦和義さんがここ数年、マスコミ相手の名誉毀損裁判にどんどん勝っていて、その一方で別の事件では有罪判決も出たりしたわけです。で、たいていの人は無罪になった事件についても「でもやったんでしょ」と思っていて、マスコミの報道は正しかったと考えていたりするのではありませんか。あるいは小野なんとかという老人が裁判で無罪になって、冤罪被害者の象徴となった数年後にたいへんな殺人事件をやった。だから「前の事件もやったんじゃないの」とみんな思っていたりする。

別に、そういうことを思うのは勝手であって、また、日常生活の会話で、私見を述べてもかまわない。ただ、著作権侵害関係でありがちなことですけど、そういう感覚で WWW という場でもふるまってしまうと、問題になるわけです。しかしながら、ほとんどのWebサイトは零細で、実態としては日常生活の延長上にあるわけです。だから、平気で一線を踏み越える。

リンクなどに関する意見(例えば最近の儀礼的無関心の話題とか)では、日常生活との境界線が一見、曖昧であっても、WWW はじつは紛れもなく公の場なんだという「常識」が語られることが多い。にもかかわらず、「言論の自由」をテーマにすると、個人サイトがマスコミ並の慎重さを持つべきとの意見はどこかへ消えてしまう。そして、Google やはてなが企業の申し入れに「屈した」ことをみんなで残念がる。おかしいでしょう、それは。友人・知人との会話と同じ気分で、名指しで無根拠な誹謗中傷をするのが「言論の自由」ですか。

公の場で発言するならマスコミを見習うべきです。みんな「マスゴミ」と呼ぶけれど、素人のタチの悪さを見るがいい。みんながそうだと思っていれば、証拠も何も要らない。そう思ったというだけで、何でも書く。咎められると心外だという顔をする。確信犯なのだ。全然、悪いことをしているという自覚がない。相手が組織になると、どんなにひどいことをしてもいいと思っている。どうせあいつらは金持ちでしょ? 力があるんでしょ? 俺らは無力な市民ですから? ふざけるな。

未完(5〜9日の4日間でここまで書いたんですけど、続きが面倒になってしまって……。まあ、いいたいことは、もう十分に書いたような気がします)

新味のない話[2004年2月12日]

実際問題としては、ほとんどの個人サイトでは何でも書き放題です。それはそれで、いいと思っています。ほとんどの個人サイトは、事実上、友人・知人との世間話程度の信頼度であり、波及力でしかないのだから。ただその趣味のサイトが、組織が脅威に感じるほどの存在に育ったとき、当然、それまで不問とされてきた責任を取らされることはありうるし、それは正しいことだといいたいのです。

これはあくまでも一介の市民の呟きである、というのなら、それなりの場所へ移動すべきなんです。咎められて、口を噤むどころか憎まれ口ばかり叩くのはいかがなものか。

繰り返し書くけれど、誰も訴訟なんかしたくない。それは当たり前のことなのに、組織にはいくらでも訴訟を起こす金と暇があると思っている人が多すぎる。自分の参加している組織が攻撃されたことがある人なら、組織の無力を知っているはずなのに、よその組織のことになると目を曇らせる。法に訴えるなんてのは生半可なことではなくて、それだけ相手を本気にさせていながら呑気なレベルで「いいたいこともいえないなんて」という。

リンクの原則論や、増殖を想像する力を説きつつ、それに伴う責任と自由の制限をいわないのは片手落ちなんです。日本人は過剰に権利を付与されていて、それを当たり前の状態だと思っていて。政治家と官僚だけはどんなにバカにしてもいいと思っていて。組織とお上は怖い怖いといいながら、自分の権利をどんどん肥大化させて。

恨みつらみはいろいろあるんだけど、もちろん私もそうした社会に暮らして権利を過剰に行使している一人で、いまさらこの生活をやめられなくて。

……ここしばらくこんなことを立て続けに書いていて、なんだか疲れました。いつものことですが。この手の話題は、また何か気になることが起きたときに。