夏休みの宿題の補足。
「お喋りする脳」と「文章を書く脳」は、感覚・印象と、合理・論理を分けて指していると思うのですが、説明の中では前者で文章を書き始めることを勧めている。 けれども、「お喋りする脳」で文章が書けるわけがない。 尤も、書くことは出来ます。 こういうものを駄文と言います。 教える時は、こういうことを教えてはいけません。 結果的に駄文になるケースはともかく、最初から駄文にしかならない方法を教えるのは如何なものでしょうか。駄文のための「作文」など書かなくて宜しい。 その代わり、毎日 畑仕事を手伝わせる。 芋掘りをさせる。 山林の下草刈りをさせる。 薪を集めて来させる、水汲みをさせる、風呂焚きをさせる、などなど、何らかの労働を強制する(躾ける)方が余程まし。 子供の人格形成という教育の原点を考えれば、こちらの方が良い。 また、このような情況にある子供は、作文ぐらいは書けるようになります。
うちの祖父が言った言葉。 「女が勉強して碌なことはない」。 田んぼが忙しい時は小学校を休んで農作業を手伝っていた うちのお袋ですが、手紙ぐらいなら苦もなく書きます。 しかし、それよりも大事なものを身に付けるべきだというのが祖父の真意だったと、今更ながら思う。
私の父は、手紙を書けません。年賀状すら、結婚するまで書きませんでした。結婚してからは、すべて母が代筆しています。文盲ではないし、喋るにも苦労しない。母が年賀状の文面を書き、それを写しなさいと指示すれば、その通りにはできます。ところが、自分で文面を考えようとすると、石像のように1時間でも2時間でも机に向かって固まっているのです。当然、父はメールも日記も書けません。
私が学校の課題で毎日「先生あのね」を書くようになった小学校1年生の秋以降、父は「お前は俺より賢い」といって、お勉強の話になると常に下座へ身を置くようになりました。駄文を書けなかった父は、小学生の日記にさえ恐れ入ったのです。
合理や論理といったレベルの話ではなく、とにかく「書く」ことができない人がいます。放っておいても書けるようになる、なんてウソです。賢い人の成功例を、お勉強が苦手な人に適用してはいけない。私は学力底辺層の子を多く抱えた塾で「書けない」事例にいくつも遭遇しました。文章を書くには基礎体力が必要です。駄文を書けない人は、内容・構成に気を配った文章だって書けません。段階を踏む必要があるのです。
駄文であれ、まず「書く」ことができなければ、一歩も先へ進みません。文章を書くことができなくても、人は生きていけます。けれども、書けるのと書けないのとではどちらがよいか。「考えたことを話す」ように「考えたことを書く」能力は、努力してでも身につける価値があると私は信じています。「先生あのね」は、その書き出しの指定からもわかる通り、「話すように書く」ことに慣れるためのプログラムでした。それが作文教育の原点だと思います。
けれども塾や学校では、私が紹介したような手のかかる指導法は採用できません(採算を度外視して特別補習を組むケースは例外中の例外であり、それを期待するのは間違いです)。だから、長期休暇中の作文指導が大切なのです。ご家庭にしかできない教育があるのだということを、知ってほしいのです。
私は方言については心配していません。全て会話文として処理し、地の文はト書き以外に用いないことを想定しているわけですから。
税金について母と話した。
「母ちゃん、あんなー、税金について話するっけど」
「ほいかー。税金な、うちはあんま払っとらんけどな。税務署の人らあ毎年律儀にあるってござるな」以下略
とりあえず、規定枚数はすぐに埋まります。すぐに埋まる、というところがポイントで、案外、作文って(少なくとも駄文を書いている限りは)大したことないんだよ、と体感していただきたいのですね。
関連文書の後日談を書くと、犬を飼う話は流れて、両親は金魚を飼いました。これがどんどん増えて、今では100匹を超えています。庭に作った池では足りず、水槽が家の周りに無数に置かれている状況。ホテイアオイも見事に育って毎日のように薄紫のきれいな花を咲かせています。優しい父は、生まれた金魚をみな大きく育てたいらしい。もうそろそろ水槽を置く場所が限界なので、悩んでいるのだという。