うちの祖父の言っていたことの一つ。 「女が勉強して碌なことはない。」 女性研究者が増えると相対的に出生率が下がる(^^;
という冗談はさて措き、女性中心の世界の歴史 というのは、男性中心の世界の歴史と同じだと思います。 というより歴史は本質的に男女に関係しない。 史実として記述されるのが男性の方が多いことは有り得るのですが、それらの史実から真実を見付けるのが歴史。 真実に男女は無い。
前段、じつは女性の学歴と出生力にさしたる関係がないことを示すデータがあります。
後段、私がいいたいのは抽象度の高い話ではなくて、もっと個別具体的な話です。例えば女子中高生のウェブサイトでトップページの累計ページビューが300万を超えたケースが過去にいくつかありますが、それを彼女らはちっとも記録に残そうとしない。まずサイトの管理人があっさりと閉鎖・消滅の道を選ぶことに驚かされます。しかし、そうした事態を深刻に考える人が見当たらないことはもっと衝撃的でした。
良くも悪くも、彼女らは「消えてしまうこと」に抗おうとしない。1万人以上も読者・利用者がいても、誰一人、閉鎖・消滅への抵抗をしない。淡々とリンクを外しておしまい。そのため、これまでに様々な個人サイト群の歴史が書かれているものの、女性ばかりが参加していた世界の情報は抜け落ちています。
以下、なぜか当事者が書かないメモをひとつ記します。
いわゆるぱど厨問題について、小中学生の頃からウェブに接してきた層がこれから社会に出てくることを不安視する意見があります。杞憂だと思います。男子の成長過程は(リサーチ不足の)私にはよく見えませんが、女子については、大雑把な流れがありますので、簡単に説明します。
女子のウェブとのかかわりは前期と後期に分けることができます。前期は(パソコン操作と日本語の読み書きに習熟する)小学校5~6年生から中学卒業までです。ふみコミュニティなどのランキングサイト、ぱどタウン、カフェスタ(=ガイアックスの進化系)などに大勢集まっているのが前期層です。後期は高校を卒業した大学生、専門学校生など。後期グループの発言や行動は、大人のそれと見分けがつきません。
サイト批評サイトの管理者に中学生が非常に多いことから、私はある程度継続して状況を見てきました。その経験から、ぱど厨問題は世代論ではなく、成長の段階論として捉えるべきだと考えるにいたりました。4年前に「何だこいつらは!?」と眉をひそめた世代が、今は良心的なブロガーになってきているのです。中学生女子のコミュニティ形成とウェブコミュニケーションのあり方は、ほぼそのまま次世代へと受け継がれていき、卒業した当人達はそうした行動・考え方をさっさと忘れていく。
高校時代が空白地帯となっていて、同世代コミュニティの縮小、衰退が高い確率で起きます。サイトの更新頻度が激減したり、リンク先が次々閉鎖してサイトが孤立化したりしやすい。携帯電話にはまる時期なのかもしれませんが、とにかく、同世代だけで固まる前期から、大人たちの作っている幅広い世代が集う社会に参加していく後期へ変貌を遂げるための、いわばさなぎの期間として高校時代があるようなのです。
……こんな話は、私のようなおじさんではなく、当事者として「ガイアックスで遊んだ中学時代、ウェブからフェードアウトした高校時代、ブロガーとして再び舞い戻ってきた現在」を生きてきた方が書くべきではないのか。
男性だって、大半は自分とその近辺のことしか記さない。今のことしか書かない。だから、「大多数」を見れば男女に大差ない。けれども、ごく一部ではあっても、男性側からはネット論を語り、ネットコミュニティを俯瞰し、歴史を書く人が出てきます。母数が大きいから、割合は小さくても相当な人数になっています。女性にもネット論の書き手はいるのですが、不思議と「こちら側」の人ばかり。
「ぱど厨だった私」を語る人がなぜ出てこない? ガイアックス(今ならカフェスタ)のシステムにおけるコミュニティ形成とコミュニケーション作法のありようについて、内部からの視点でレポートする人がどうしていない? ネットマナー啓蒙サイトはとくに女性が多い同人サイト界隈で広まったのに、その流行の系譜を書く人がなぜいない? 大勢の人々が参加していたのに、既に歴史が失われている世界がたくさんあります。それでいいのか?
もちろん、このような問題意識、問いの立て方自体が、「こちら側」の発想だということはわかります。しかし……そこにあったはずの巨大なものが、跡形もなく消えていく。そのことを悲しく思い、哀悼の意を捧げるのが、私一人では寂しい。
ゆびとま会員は305万人。ブロガーの総数に匹敵します。カフェスタ会員は161万人。アクティブなブロガーの総数に匹敵します。楽天広場の会員は41万人。ブログ黎明期には他サービスの会員数総計を上回っていました。歴史の欠落は、現実世界の大きな存在を「見ない」アカデミズム側の問題でもあります。