趣味Web 小説 2005-11-02

コスト意識だけで「常識」を選択してもよいが……

いまだにこんな非常識がまかり通っているのか! という方向で盛り上がっている話題。

私の感想は、現在盛り上がっている主な方向とは少々異なる。

結局のところ、ひとつの価値観で世界を覆いつくそうとする試みは必ず軋轢を生む。「常識」はひとつしかないと思い込むところに問題の端緒があり、そもそも世界は多様な価値観で満ち溢れていると考えるべきなのだ。

最近、当ブログのコメントにて、「元の記事に対して批判的な記事でトラックバックをするのは非常識」というような意見をいただいた。

正直に書けば「え、そうだったの?」と思ってしまった。

(中略)

こちらとしても、あえてブログ界の「常識」から外れる気はないので、それが「常識」ならば今後は従っていこうと思う。

この方が何年生きてきたのか知らないが、「世の中にはそういう人も当然いるだろうな」と想像する力があってもいいのではないかと思う。

「みんながそうなら従う」というのは、ときに危険な考えだ。みんながどうあれ、抗議してきた人が憤っていた事実は変わらない。こちらに何の悪気もなくても、「常識的」な行動を心がけていても、傷つき涙する人は出てくる。変人がどんなに傷ついたって気にしないが、常識人が傷ついているなら対処する、それで本当にいいのか。……と、こんな形で問いを立ててみると、「常識」は揺れてしまう。誰も傷つけない生き方はできない。その自覚はあっていい。

とりあえず、その「場」を支配する多数派に属するという戦略は、ひとつの考え方として理解するし、ケチをつける気はない。そもそも批判的な記事でトラックバックすることは、私もよくやる。ただ、自分が「常識」側にいるのだから、少数派の反対者の気持ちなんか考えない、ということになると、自分にもしっぺ返しがあるだろうな、と思う。

多数派に属していようと少数派に属していようと、異論の持ち主には遭遇します。その一方で、圧倒的多数の無関心が世界を塗り込めています。私は、例えそれがつまらないこだわりに過ぎないものであっても、あえてブログ界の「常識」から外れることを厭わない、との基本方針を選択しました。その結果、当サイトの更新コストが上昇することは折込済。

自己紹介のつもりで、この記事の感想を書く。あんな事件ひとつでいちいちこんなことまで考えるのか、と思った。母親を殺したい少女ってのは、そりゃあ高校生に限ったって何百万人もいるのだから、たくさんいるに違いない。本当に殺してしまう少女は多くないかもしれないけれど、別にそれってとくにどうのこうのというようなことなのかな、という感じ。

個人的には、実際に殺害計画を実行するような人が増えては困るので、さりとて他人の価値観なんぞにいちいち手を突っ込みたいとも思わないので、さっさと死刑にでもしてしまえばいいのに、と思わないでもない。しかしそうもいかないので(私ほど乱暴な考えを持っている人は多数派でないことが予想される)、そしてよく考えてみれば、心配するまでもなく母殺しを遂行する少女なんて極めて少数派なので、考えるだけ無駄だよな、と思って放っておく。

興味のないことについての感想というのは、せいぜいこんなものですね。私は事件が起きるたびに一喜一憂するということが少ない。「どうでもいいや」という無関心を、むしろ強く意識していると思う。

殺人事件に関心を持たない人間が、なんで「たかが趣味」のあれこれに関心を抱くのか、自分ではうまく説明できない。ただ、この自分が、何かに関心を持っているという無意識の情動を、大切にしたい。だから、わざわざ何かを主張したいと思ったとき、多少の高コストは厭わないのかもしれない。

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いずれも異論あり。一言でいえば、「ポジティブな発言は誰も傷つけないと思う浅薄さ」が見過ごされている。ネガティブなことを書くには覚悟が要るが、ポジティブなことを書くなら気楽だ、という主張を基本的に私は受け入れない。ウサギを食べれば「かわいそう(T_T)」牛を食べれば「美味しい(^_^)」といった話と同種のおかしさが、そこにはあると思う。

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