趣味Web 小説 2006-02-23

気楽に書けない有名人

先日の電気用品安全法 SideAの記事に関して、こんなことを小寺さんがBlogで言っていた、という新しい解釈のBlog記述を発見して、衝撃を受けた。

すなわちパソコンのモニタ経由で見ている以上、それがニュースサイトの記事だったりコラムだったりBlogであったりというツールの使い分けというのは、あくまでも発信側の理屈であって、みる側としては信憑性も含めてなんもかんも一緒くたに見えているということなのである。

ある意味これは発信する側にとって、根幹を揺るがすとてもおそろしいことである。ちなみにこのBlogに関しては、編集部の校正も何も入らないナマの文章であり、ITmedia +D に載るコラムというのは、編集部ならびに編集責任者の目をいったん通して校正されたのち表に出る、ある意味出版と同じプロセスを経由するものなのであるが、それすらも関係ないということなのである。

(中略)

もちろんBlogでもちゃんと裏を取って責任ある発信をしているところもあるだろうが、「メディア」とは単にインフラだけを指すという発想をする人間がすでに現われているということは、肝に銘じておく必要があるなぁと痛感した。

この感覚、わからない人にはわかるまい、と思う。とりあえず、ひとついえることは、「適当なことを書き飛ばすなら本名や通名を出してはいけない」ということなんだろうね。裏取りなしでいい加減なことを書いても、雑誌や新聞に書くのと同様に信用されてしまうのだから。メディアで売った名前で読者を集めつつ、気楽に適当に思ったことを(よく調べずに)ちゃらちゃら書いていくことはできない。いいとこどりは許されない。

逆に、いい加減なことを書くというキャラクターを確立してしまう手もある。内田樹さんのブログはその好例で、連日のようにアップされる放言に「こういう人だったのか」と認識を改めた読者も多かろう。しばしば(様々なレベルの)事実誤認を指摘されているのだが、滅多に記事が修正されることはない。そういう目で新聞などに掲載されているコメントなどを読むと、どうも胡散臭く思えてくる。でも、それで内田さんの本が売れなくなるわけではない。総理大臣をバカと呼ばわりしても咎めだてする人はおらず、名誉毀損にもならないらしい。相手と言葉の程度を選べば、憶測と思いつきで中傷できる。

引用中、(中略)とした部分にはテレビでやってたから信じる、というのは、散々テレビをやってきた筆者から見れば噴飯ものなのであるが、多くの人はテレビでやってから本当だ、と思っている反面、ネットの記事はすべからくBlogと同等という感性が怖い。という一文が入る。内田樹さんがマス媒体でもブログと同じように放言できるのは、実際にはマス媒体のフィルターがいい加減だからだ。まあ、日刊ゲンダイの報道が正しければ、日本人はみなとっくに不幸のどん底に落ちているはずだ。

ところで、小寺さんのブログに寄せられたトラックバック記事を読むと、「これからは人を信用する時代だ」みたいな主張が出ている。私は、違うと思っている。

ネットの普及で情報の選択肢が増えた、といわれる。じつは昔から、ほとんどあらゆる言説が何らかの有料媒体に登場していたのだけれど、コストと検索の両面から、需要と供給を結ぶ仕組みに難があった。ネットインフラと Google は、両者をダイレクトにつなげた。その結果、情報探索に大きな時間をお金を投入しない人であっても、自分の価値観にマッチする発言者に出会うことが可能となった。それだけのことだろう。

テレビという最大のマス媒体は無責任にもノストラダムスの大予言なんてあほなものを平気で取り上げてきたのだし、出版界ではあらゆる陰謀論が刊行されてきた。それらは限られた人々の趣味だったのだけれど、ウェブはその枠を広げたのだと思う。

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