趣味Web 小説 2006-03-06

理想と現実と諦観――幸せな生活をもとめて

よく解からないので訊く。

(中略)

「人間なんて、こんなものですよ。」と認識する と、進歩はそこで止まってしまうと考えるのが普通──常識と言ってもよいけれども、そこから 一歩でも二歩でも前進 するための原動力は何ですか?

わかりません。

徳保さんの矛盾は ここにある。 一歩でも二歩でも前進しようとするとき、人間は「こんなもの」とは思っていない。 自分の出来る(手の届く)目標を達成したところで達成感はない。 満足感ならあるかも知れない。 しかし、不可能と思えることに挑戦するから全身に力が漲るし、達成出来れば幸せを感じることが出来ます。 仮に達成出来なかったとしても、高い目標に真摯に向き合ったことは自信に繋がる。 次の挑戦の原動力にもなります。

多くの場合、諦めると前進も止まります。けれども、何ひとつ前進しなくなる、ただ朽ちていく、というわけでもないな、という実感があります。だから、頑張るのは「無意識」にお任せしていいのではないか。意識的な精神のコントロールは諦観側に寄せ、自己を肯定し、悩みを減らしていい。

別に、「志」はあってもなくてもいいと思うんだな……。

トリノオリンピックで荒川さんが金メダルを獲りましたが、子供たちが荒川さんのようになりたいという目標を持つことは大事だと思う。 目標と言うより夢かも知れませんが、最初から結果を重視して夢を潰す「人間なんて、こんなものですよ」は受け容れ難い。 というより理想を掲げることを否定すると、人間は一歩も前進しないはず。

このあたり、三宅さんと意見の食い違うところですね。実際、私は10年くらい絵を描いていたけれど、「いくら描いても高が知れてるだろうな」とは思ってた。それでも、それなりに上達していったのだし、賞もたくさんいただいたし、他に関心が移るまで、この趣味を放棄することもなかった。結局はやめてしまうのだけれど、少なくとも「どうせ俺なんかこの程度なんだから」という理由で放り出したわけじゃないのですね。

「ひょっとしたら、ある日突然、絵の神様が降りてくるかも!?」という期待みたいなものを完全に排除していたわけじゃない。ファンタジーはあっていいと思う。けれども、「ま、誰もが絵で食っていけるわけじゃなし」という諦観があったればこそ、私は虚しさを感じなかった。

何かしらの見返りを期待しているから、厳しい現実に打ちのめされるのです。じつは人間は、見返りなしでも頑張れるものを持っているのではないか。そういうものだけ選んで取り組んでいけばいいのではないか。

「理想と現実」ということをよくいいますが、上の仮想としての「理想」と同様に、下の仮想としての「諦観」だって、もう少し注目されていいのではないかと私は思います。現実には「奇跡」も起きるし、「幸運」だってある。報われる努力も時々ある。だから私のいう「諦観」は現実とは違う。物理的な損害についてはリスク管理の大切さが説かれる一方、精神的コストは安直に軽く見積もられているきらいがある。

いろいろ書きましたけれども、私は「理想」の大切さをいくら説いても足りないように、「諦観」の大切さだって耳にたこができてもまだいい続ける必要があると思っているのです。私の言説だけを取り出せば「理想」を語る言葉が極端に少なく、「諦観」を掲げる発言が突出しています。しかし現代日本社会では、建前ベースでは「理想」偏重なので、私は対抗措置として「諦観」偏重路線を前面に押し出しているのです。

高校生の意識調査などを見れば、本音ベースでは若年層に「諦観」が浸透しつつあるようです。しかし新聞の社説が「それでいいよ」とは、まだいえない。そこまできていない。私はまだまだ「諦観」の布教を頑張るつもりです。

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