趣味Web 小説 2006-03-17

「悪魔の証明」といって思考停止するなかれ

てんこもり野郎さんによる疑惑に提示に対して、松永さんは怒りにまかせて、こうお書きになった。

立証責任は貴様にある。疑いをかけた側が立証するのが筋であり、疑いをかけられた側に「私は違う」と立証させようとするのは、悪魔の証明であり、不可能だ。「違うと証明できないから、認めたんだ」とプロパガンダする奴は信用してはならない。繰り返すが、立証責任は疑った側にある。できないなら即刻泉さんに謝罪し、間違っていたということを誰の目にもわかるように訂正すべきだ。

「悪魔の証明」という言葉は好きな人が多いようだけれど、私は「あまり使わない方がよろしいのでは」と思っている。

日本では、一定の根拠を持って他人を疑うことが制限されない。疑うに足る根拠があるとき、「疑わしい」と意見表明する自由があるということ。そうでなかったら、裁判で敗訴するたびに警察は名誉毀損なり何なりの損害賠償をしなければならない。裁判所は一定の根拠があれば逮捕状に判を押す。逮捕のような重大な人権の制約だって、一定の根拠があれば認めるわけだ。

そういったわけだから、いま問題なのは、「顔の一部が似ている」という根拠が、疑惑の表明に十分なものといえるのかどうか、ということだ。

そしてまた、泉あいさんは、悪魔の証明を求められているわけではない。もちろん、てんこもり野郎さんを納得させることは不可能かもしれない。特定の一人を確実に説得する方法はない。しかし実際には、大多数の人間を納得させればよいのだ、といえる。つまり、一定の反証があればよい。菊池直子さんの年齢は警察が発表しているわけだから、例えば小学校の卒業アルバムなどを示せばよいのではないか。菊池さんの身長も公開されているわけだから、泉さんの身長が確実に高いことを示す写真などを公開すればよいのではないか。

それでも疑う人は疑うのだろうけれど、完璧な反証ができないからといって、何の対応も取れないということにはならない。

完璧な立証ができない限り、疑惑を一切、口にしてはならないのだとすると、それはなかなかヤバイ社会なのではないか。芸能人の喫煙写真とかだって、あんなもの、ネオシーダでないとどうしてわかるだろう? (注:未成年もネオシーダを使用することは違法でないが健康には悪そう

あるいは、いくつかの判決を読んだことがあるけれど、そもそも裁判で有罪とか無罪とか決めるときだって、完璧な立証がなされているケースはそれほど多くないように思う。僅かな可能性を疑っていけば、無罪はともかく減刑はあってよさそうなものじゃないかと思われる事例は、決して少なくない。傷害致死と殺人とでは全く量刑が異なるが、これは絶対確実に殺人であって傷害致死ではないという証明なんて可能なのだろうか。

裁判員制度プレビューということで某所にて模擬裁判員を務めたときも、傷害致死か殺人か、が問われた。結局、精緻な証明なんて無理で、多数派が妥当だと判断するかどうかが問われた。その結果、傷害致死で決着した。元最高検検察官の教授も異論を挟まず、「そういうものか」と私は思ったわけだった。

「違うと証明できないから、認めたんだ」とプロパガンダする奴は信用してはならない。というが、これも微妙な線だと思う。ここでも重要なのは、その主張に賛同する人が多いか少ないか、なのではないか。「こんなくだらない中傷にいちいち対応しないのは当然でしょう」と思う人が圧倒的に多い事案はある。

実際問題、泉さんが本当に疑わしいなら警察が動くに決まっていて、てんこもり野郎さんが紹介した疑惑は捨て置いてよいと思っている。ただ、この程度の「証拠」による「疑惑の提示」は過去に繰り返されてきたものであり、その多くは問題視されてこなかった。

永田偽メール事件に関する essa さんが紹介した疑惑は大外れだったのだけれど、essa さんは少なくともその点について、永田さんにも民主党にも謝罪していない。結果的に偽メールだったのだから間違っていなかった? いやしかし、essa さんが当初提示した根拠は崩壊したのであって、誤った根拠に基づく中傷的言辞には責任を取るべきではないか?

……けれども、そのように考える人は、決して多くなかった。ほとんど皆無だったといっていい。つまり、そういうこと。

相談の席についた担当刑事の第一声が「まず、あなたがオウム信者でないことを警察に証明してください」です。方法を聞くと、しばらく答えに窮し、出てきた回答は「オウム道場へ行って書面であなたはオウム信者ではありませんとの証明書を書いてもらってきてくれ」と。

ようするに、警察はそれで信じる、と。紙一枚の証明書に、どれだけの信憑性がある? けれども、ひとつの飛躍を受け入れると警察はいっている。世の中は、こうして回っていく。

特定の一人が疑惑を撒き散らしている場合、いくら多数の人間を納得させてみたって、特定の一人がどんどん疑いをかけてくるわけでしょう、あーじゃないか、こーじゃないかって。それで疑いがどんどん拡散する。否定しても否定しても「こーじゃないか」って言ってくる。こういうバカが多すぎるんだ、ネットには。だから、困るんだ。そういうバカ対策として「悪魔の証明」って言いだしたんだよ、きっと。相手を困らせるとか潰すとかいう意図がない限り、こんな単語は出てこないからね。

疑いに一定の説得力がある場合に限って話が拡散するのであって、大半の人が「いい加減にしろよ」と思うようになれば、いくら疑惑を言い立てても騒動は尻すぼみになる他ない。ただ、その特定の一人の攻撃の執拗さに白旗を上げざるをえなくなるケースはある。私がはてなをやめたのも、そういう理由だったので、それはわかる。だから「あまり使わない方がよろしいのでは」なんです。

ところで説得力というのは難しい概念で、大勢が「さもありなん」と思う仮説は根拠薄弱でも受け入れられ、「バカいうな」と思う仮説は厳しい検証にさらされる。そのため、しばしば真実は虚妄に敗れてしまう。ひどい話なんだけど、これは改善のしようがなさそう。→価値観対立を賢愚の図式に落とすのは

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