鳥新聞さんからご批判をいただいたのだけれど、うーん、正直よくわからないな。
以下、まるごと余談。
近年、大衆の有能感の高まりから、人々の司法に対する批判が強まっています。裁判に庶民感覚を持ち込もう、というわけで裁判員制度もスタートすることになりました。社会の様々な場面を振り返ってみれば、なるほど、司法の判断は一般人の最大公約数的な感覚と乖離している、といわざるを得ません。
例えば、オウム真理教(現・アーレフ)信者の転入届不受理は違法だと、裁判所は判断しました。オウム信者にだって人権はあるというのです。私の周囲では「殺人テロ集団に人権なんかあるか」「改心しないなら刑務所に入れるべきだ」「オウムは宗教じゃない。だから信教の自由とは関係ないのだ」などなど過激な意見が飛び交いました。いや、みんながそういっているなら、それはもはや過激ではない。多様な価値観の共存を訴える私の方こそ過激なサヨクなのだそうです。泣ける。
で、私は「この先何十年も、こんな人々に囲まれて生きていかなきゃならんのだなあ……」と嘆息したのだけれど、日本はこれほど過激で排他的な人々の国家なのに、政治家たちは無茶な法律を作らない。司法は素直な判断を下し続ける。行政もオウムに対する破壊活動防止法の適用を見送るほど慎重なのでした。国民は政治家を嫌い、裁判官をバカにし、官僚を憎む。なるほどなあ、と思う。でも私は、日本のエリートたちを信頼しています、少なくとも一般庶民のみなさんよりはずっと。
権力は民意を斟酌しつつも、なかなか一般人の思う通りのことはしない。たいてい、少しずれている。そしてしばしば、全く別のことをする。それはなぜか?
かつて私は、「権力の意思決定機構から愚者が排除されているからだ」と考えていた。しかしこのところ、それは違うなあ、と思うようになりました。これも価値観・世界観の対立なのだな、と。お互いよく話し合った結果、どちらがどちらに歩み寄るかは明らかでない。議論が決裂したとき、主導権を握るのが権力側と決まっているわけでもない。ときには革命だって起きる。そしてこの対立構造そのものが、この社会の生存システムとして戦略的に運用されているのではないか。
現在、少数派に優しく人権をできる限り守ろうとする人々が権力を持っているのは、ひとつの解に過ぎない。これが結論だと思ったら大間違いだろう。世界は、可塑性に富んでいる(かもしれない)。
私の声に何の力もないことは、日々実感してる。目の前にいる一人、二人も説得できないのに、こうして少し文章を書くだけで、何が起きるというものでもないとは思う。ただ、それでもね、もう少し、あとほんの少しだけでも、現在の多数派の価値観を、司法の世界の価値観に寄せる努力をしたい。異分子を排除する排他主義、過剰な応報概念の勢力を僅かでも弱めて、共生の価値観をもう少しだけ大切にするバランス感覚が社会のコンセンサスにならないかなあ、と夢想せずにはいられない。
……そうはいっても、スパッと割り切れないんです。私の本音は、id:Schwaetzer さん(2006-03-18, 19)にとても近い。違うのは、私はハイエナ野郎で、id:Schwaetzer さんは違う、ということくらい。私は当初、松永擁護でガンガン書こうと思ってた。でも、書けなかった。
泉氏にとって松永氏にとって、「
大多数の人間を納得させればよいのだ」で済まないのである。少数でもいいから、必要十分な人間に納得させなければならないと考えていると思う。なにより彼ら自身が苦痛を無視できる程度に、素性の分からぬてんこもり野郎氏の記事が「くだらない」と納得できなければならない。泉氏にとって肖像権を侵害されて到底納得できないだろうが。
泉さんのサーバを管理している ume さんを除けば、今のところ生活基盤の崩壊には見舞われていない様子。松永さんの住居の大家さんも今回の騒動を知らないだろうし、結核の診療を行っているお医者さんも、隣近所の人だって同様なのではないかと。希望的観測に過ぎませんが、仮に私の状況認識が大きく外れていないとすれば、最低限の必要は既に満たされているのではないか。「必要」は満たされても、「十分」は遠い。しかしそれは、みなが我慢していることだと思う。
オウムへの強い恐れと怒りを持っている人にとって、松永さんが本当に信仰から離れているのかどうかは大切なことで、不安なことで、心の負担になっていることなのだと思う。タコ殴りみたいなウェブ論壇(?)の状況に私はムカついたのだけれど、泉さんや松永さんらを責め立て、追い詰めずにはいられない人々の気持ちだって、わかる。いま彼らに水をザバザバ掛けて回るのが正しいのかどうか、私自身、よくわからなくなってしまったのです。
「お前の母ちゃんデベソ!」とか「このハゲ!」と言ったとき、証明することはできるだろうし、「母ちゃんはデベソでない」とか「ハゲじゃない!」とむきになっては疑念は深まるばかり。しかし(中略)数学的に証明できても心情的に困難である。
これはよくわかる。泉さんに、現在している以上の釈明はしようがないのだと思う。「不可能」ではないからといって、「可能」とも言い切れない。「できるはずだ」と「そんなこといわれても」の距離は、遠い。
ただ、その言葉の苛烈さ、冷たさ、残酷さを理解していてもなお、「お前の母ちゃんデベソ!」といいたくなる側の気持ちも、わかるのです。無論、単なる無神経かもしれない。でも、それすらもひとつの生き方で、一概には否定できないと思う……って、そんなに譲ってしまって、どうするんだ俺は。あああ、どこまでいっても「私はこう思う」という結論しかないのはいつものことだけど、「提言」する気力がわかない。何だか寂しい。