K さんの体験談。
息子が小学校1年生のときに同じクラスだった女の子のお母さんが病気でお亡くなりになったのです。私は息子に「○○ちゃんのママは死んでしまったのよ。学校に出てきたらやさしくしてあげなさい。」と言いました。しかし、その後、私が意図していたことと大きく反していた行動を息子はとってしまったのです。
聞けば、息子は休み時間中に女の子に声をかけたのだそうです。
「ママ、死んじゃったんだってね」。
気丈に振舞っていたその子も、家に帰れば悲しくなってしまったのでしょう。気になったお父様が問いただしたときに、息子の名を口にしたそうです。お父様は担任の先生と相談し、その出来事を文書にしてお手紙を学校側に出しました。その手紙が息子の担任の先生のもとへ行き、先生も息子を叱り、先生と息子で謝りに行ってくださったそうです。
先生から連絡を受けた K さんは、「叱って解決できる問題ではない」とお考えになりました。そして「100万回生きたねこ」を親子で一緒に読み、たまごっちの死と愛する者の死の違い、その重みについて、考えるきっかけを与えようとされたのです。お子さんは、100万回生きたトラ猫が愛と死を得る物語に胸打たれ、涙を流したという。
K さんは、教育熱心で優しいお母さんだと思う。ただ、私の心には引っかかるものがありました。
「やさしくしてあげる」とは具体的にどうすることなのかを秘密にして、正解を自分で発見させようとするのは残酷です。子どもの行動を意図に反する
と評するからには、K さんは正解を持っていたはず。ならばどうして、事前に(そして事後にも)具体的な行動指針を与えなかったのか。「死の重み」を考えることは大切です。しかしその体験が次回の成功を保証しないことも、私は知っています。
自分でもよくわかっていないことを抽象的な言葉で説明できたような気になっている大人は多くて、子どもはいつも苦労します。いいつけ通りにして、これで誉められると思ってワクワクしていたのに叱られてしまう。この理不尽、悲しさを、私は心に強く刻み込んでいます。だから、おそらく精一杯優しく声をかけたのに、逆に相手を深く傷つけ、誰にも誉めてもらえず、先生に叱られて気落ちしたお子さんに、私は同情しました。
繰り返し「ママ、死んじゃったんだってね」と声をかけられた女の子は、悲しみで胸がいっぱいになり「学校へ行きたくない」と父親に訴えたという。K さんのお子さんは気持ちを伝えられなかった。ただ、悲しみを封じ込め、包み込んでいくのが唯一無二の正解ではないこともたしかです。やり方は稚拙だったにせよ、K さんのお子さんの方針が間違いとはいいきれません。
私は26年も生きていますが、母親を亡くした人にどう声をかけたら励ますことができるのか、いくらかでも相手のためになるのか、わかりません。明らかな間違いはいくつか思いつきますが、正解は、わからない。全ての間違いをリストアップすることもできません。だから、人を傷つけてしまう。ある人が「そんな言い方はないだろう」と驚くような言葉を口にしさえするのです。
私が長い時間をかけてようやく理解したのは、一人一人、異なる正解を持っているということ。そのくせ、みんな自分の考える正解に一般性があると確信を持っている。そしてもっとおかしいことは、みな、誰かが正解の言葉を口にすると「それだ!」と思うのに、自分ではその言葉を発見できないこと。だから、みなコミュニケーションに自信を持てない。
世界はあまりに複雑で、誰も失敗は免れません。しかし幼い頃の人生には、もう少し、成功体験が多くていいと思う。親の期待に応えようと努力した子どもは、もっと報われていい。「宿題しなさい」やらない。「夜更かししてはいけません」布団に漫画をしのばせる。「歯磨きしなさい」面倒くさいのでサボる。「忘れ物は?」今日もしました。前科は多い。けれども、そうであればこそ、本当に頑張った可能性があるときは……。
たいていの子どもは、親に好かれたいと思っています。暫定版でいい、不出来でもいい、親には正解を示してほしい。もしよその大人には叱られても、ちゃんと教えられた通りにしたら、お父さん、お母さんだけは誉めてくれる。そんな正解を、教えてほしい。
無論、常に具体的な正解を示すのは事実上、不可能です。やむなく抽象的な課題を与える場面もあります。ならばせめて、結果を問う前に、まず子どもの勇気ある挑戦を誉めてほしい。自分が子どもに与えた課題の大きさ、重さ、難しさを再認識してほしい。
……そう、思ったのです。(2006-06-30 全面改訂)
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