香川大学経済学部地域社会システム学科の言語学教授が主に学部4年生に向けて書いた文章。点数の足りない人に単位はあげません、という話。
授業中に「いわゆる救済措置(試験後にレポートを書けばそれで単位を出す等)はしないので、単位乞いには来ないこと。4年生以上は特に気を付けること」と何度も何度も言うのだが、問題は授業に来ていないひとなので言っても効果があまりない。
救済措置を講じないこと自体は賛成。でも話のディテールには、少し思うところがある。
この記事には、引っかかるところが多々ある。
大学事務室への親からの“理不尽な要求”は卒業するまで絶えることはない。
留年した学生の親からの「なぜこうなる前に知らせてくれないのか」という注文▽履修ミスをした学生の親からの「息子のために(履修を)やり直せないのか」という懇願▽宿題のリポートを自宅に忘れた学生の親からの「ファクスするから子供に渡してほしい」との連絡▽「風邪をひいて休むから教授に伝えてくれ」という依頼-。すべて、大学関係者が実際に見聞きした例だ。
そして、どうにもならないことを知ると、決まって吐く“捨てぜりふ”がある。「『高い学費を払っているのに』という言葉です」(染谷さん)。最高学府ならぬ「最高額府」-その程度の認識なのだろう。
アレルギー対策の食事療法で給食を食べられなかった(卵・牛乳・大豆に非常に敏感だった)私は、幼稚園へお弁当を持って通っていた。その中身が貧相な日はよかったが、見た目に派手な日は、「一人だけズルイ」という声が、他の園児から上がったという。
それで両親は、私を近所の私立高等学校に付属する小学校へ進学させたいと思うようになった。その学校は給食制を採用せず、全員がお弁当を持参するシステムだったからだ。
私は知恵の足りない奇行を繰り返す園児だったので、幼稚園の先生はお受験なんて無理だといった。ところが、なぜか私の受験した年だけ男子が大幅な定員割れとなり、受験者全員が合格してしまったのだった。私はそのままエスカレーター式に高校まで進んだ。
私立学校の経営には、ひとつ明快な認識がある。「生徒は客ではない。顧客からの預かりものだ」
もちろん経営者に雇われた教師たちは生徒のことを第一に考える。しかし経営者の顔は、お金を出す人つまり生徒の保護者に向けられている。したがって、カリキュラムの説明や、卒業や昇級に関わるトラブルなど、一切の問題は必ず保護者に伝えられる。停学・退学などの説明も同様で、生徒の意見は参考意見として尊重するが、学校と保護者だけが話し合いの当事者なのだった。
高校卒業後、私は地元の国立大学に進学した。授業は面白かったが、学校運営に関しては、「話に聞いていた通り、低レベルだな」と思ったことを覚えている。
学部毎に事務局があって、10人くらいが働いていた。学部単独でも校舎や先生は非常に多かったが、学生の数となれば高校の方がずっと多かった。そして高校の事務局は4人くらいで切り盛りされていた。単位処理の煩雑さが全く違うことは理解できるが、サービスの質には納得し難かった。
例えば、授業料未納者への対応。なぜか事務室前の廊下に学籍番号が掲示されるだけ、なのだ。これが無視されると退学。殿様商売という他ない。国立大学の工学部だから、学生が減った方が税金の節約になる、という発想なのだろうか。私立高校では、振込み期限日の午後5時には電話がかかってくる。
この違いは、国立大学が顧客を見失っている証左と思われる。なぜか大学では、お金を出す人よりも学生の方を顧客と勘違いする伝統があるようだ。しかし明確にそう思い定めているわけでもない。それは入学時に誰が授業料を払うのか、書類を提出させていることからも明らかだ。つまり大学経営の焦点がブレているのだ。
私は、お金を出す人を顧客と位置づけるのが明快でよいと思っている。日本育英会が学費を出しているなら、学生の成績表、履修状況と卒業に必要な残り単位を日本育英会にも送ればよい。これは学生の嘘・ごまかし・勘違いを防止する効果もある。
産経新聞の記事では、保護者の要求を理不尽としているが、私は「そうでもない」と思う。旧態依然とした「大学とはこういう場所だ」という思い込みに、No が突き付けられているに過ぎない。小中高の事務室が当然のように提供しているサービスを、なぜ大学では切り捨てるのか。
私の進学した大学では、1990年代半ばから「成績表+履修状況+卒業までの残り単位」を学生向けとは別に保護者宛てにも郵送するようになった。きっかけは留年を院への進学といってごまかしていた学生の保護者からの苦情だったそうだが、お金を出している人にサービスの実績を報告するのは当然だ。いまだにこの程度のこともやっていない大学の事務局がたくさんあるそうで、どうかしていると思う。
成績表郵送サービスは整えていた私の進学先の事務局だが、外部からの連絡をどこにも取り次がない体質は改まっていなかった。民間企業だって社員の実家からの連絡を当人につなぐサービスを行っている。当人が離席していても、机がある職場ならメモを置いてくれるし、製造現場など机のない職場でも掲示板に張り紙をしたりする。ところが大学の事務局は「そのようなことはやっておりません」とすげない。
大学で困ったのが病欠の連絡。高校までなら事務室へ連絡すればよかった。ところが大学では担当講師に直接連絡しなければならない。ところが事務室へ電話しても、先生の連絡先を教えてくれない。だったら代わりに連絡してくれるのかと思ったら、「そのようなことは云々」。せめてレポートをファックスで送ろうと私も思ったことがあるのだけれど、「ファクス番号は教えられません」。転送もしてくれないという。
渡辺己さんが公開されている学生のレポート採点結果[PDF]を見ると、その提出率の低さに呆れる。お金を出している人はこれを見て怒らないのか? 合格通知を出した以上、学生のレベルを受け入れた上で、学費を負担する人の期待に応えなければなるまい。
いろいろ話を聞いたり、ちょっと顔を出してみた限りでは、中堅大学より並の専門学校の方が教育機関としてずっとまともな状態にある。何が違う? 学生の質ではない。大学が抱える問題の根源は「授業に出ずとも単位は取れる」「授業中も教室は出入り自由」「履修の自由度が高い」この3点だ。
大学改革私案を書く。
3年前期までは月曜から金曜まで午前中は全て必修科目と専門科目でビッシリ埋め、空きコマを作ることを認めない。午前中の全講義で出欠を厳しく取り、講師の特別の許可なしに授業中の入退室を禁じる。必修科目は2年後期までに全て履修できる仕組みなら、3年4年と2度の再挑戦の機会があるから卒業にも不都合ない。
平日は毎朝決まった時間に登校して授業に出る、そういうシステムにすることが大切だ。1年前までは高校へまじめに通っていた人を、なぜ大学は堕落させるのか。専門学校を見よ、授業への出席は「当たり前」になっている。学生の資質ではなく、大学の教育システムに問題があるのだ。
文系の学部教育を覆う奇妙な倫理観(2007-03-07)やレポート課題の出し方(2005-09-10)の問題意識とも重なるが、自縄自縛から脱却し、愚直に教育成果を追求すれば(かなりの部分)解決できるであろう問題は多い。個人の努力は認めるが、なぜ教育システムに手をつけないのか。
小学校で「学級崩壊は生徒の自己責任だ」といって許されるか。ブックオフ社長橋本真由美の「最強の現場の創り方」(日系ビジネスオンライン)にある通り、大人が集まって構成する民間企業だって、適切な管理体制がなければ堕落する。卒業間際のドタバタは、大学が夏休み中の小学校と大差ない学生管理しか行っていない以上、必然だ。