初等中等教育でなら生徒の保護者が顧客になるけど、高等教育では学生自身が顧客と捉えるべきでは?金の出所は顧客側の問題だし。
なぜですか? お金を出している人が、現に、大学に文句をいっているわけです。資本主義経済の社会では、当然のことです。リスクを負ってお金を出す人の要望に応えないで社会が発展するのは例外。大学が例外だというなら、まずそれを論証すべきです。
私が考える限りでは、お金を出している人の希望通り、学生にきちんと講義を受けさせる方が、大学が生み出す社会的利益は増大すること間違いないと思うわけです。
自律できず向学心の乏しい学生を「お願いします」と預けられた大学が「こんなのどーしようもないよね」と嘯くなら、助成金の原資を負担する納税者の一人として私は「税金泥棒!」といわせていただく。私は学生を堕落させるだけの機関に1円だって寄付するつもりはない。
学費を誰が出すかは大学の知ったことじゃないよな。教育というサーヴィスの対価として学費を要求しているに過ぎず、金は払ったがサーヴィスを受けないのも受講者の自由。
顧客満足を最大化するには、いったい誰が顧客なのか知る必要がある。ふつう、顧客=お金を出す人です。大学は例外だというなら、理由は何? 大学の顧客は学生だという思い込みが、心の弱い学生の転落を放置する非効率な教育システムを延命させてきたのです。
弟が大学院(国立)へ進学した際、私は両親の保証人として書類に判を押しました。大学は学費の未払いを恐れ、信用力の担保を求めます。大学は金の出所に深い関心を持っています。ところが金と同時に口も出すと、「最近の保護者ってヘン」と怪訝な顔をする。顧客に対して、無礼極まりない。
大学は自分で学ぶべき場所。「学校」ではないし、「学生管理」を行うところでもない。/ていうか講師に病欠をいちいち連絡する意味がわからない。国立大の工学部ではそういう慣習があるんですか?
だからそれが根拠のない思い込みであって、そんな夢物語のために、現に大勢の若者を無為に堕落させる壮大な無駄遣いが行われているのです。この損失をどう考えるのか。
100%の出席率を前提に講義室を作っている無駄、講師の人数の無駄、これらは数限りない。本来、100の成果を見込んで90の投資をしているのに、学生のサボりを放置する教育システムだから70の成果しかない。大雑把にいえばそういうこと。
ところで、病欠の連絡には意味があります。
まず、まじめな学生が連絡なしに講義を休むと、先生が心配します。事前に連絡があれば、余計な心労をかけずに済むわけで、これは当然のマナーというべき。たまに教育実習など、ずっと前からわかっている欠席を伝えない学生がいて、先生を不愉快にさせていました。「よくそれで教師になろうなんて思うものだな」
次に、ズル休みと病欠では先生の対応が異なります。例えば、講義出席者だけに市販されていない紙を配って「**日までにレポートを書いて提出せよ」と指示を出す場合、病欠の連絡があれば、健康回復後に研究室へ伺うと、その特殊な紙をもらうことができます。あるいは空き時間に補習をしてくれることも。
大学を「教育機関」と位置づけるなら概ね同意。でも、僕は「教育機関」と思えないので同意できない。そもそも「教育機関」が「製品製造工場」みたいになってきている現状が嫌だ。
小中高の事務室が当然のように提供しているサービスを、なぜ大学では切り捨てるのか。
そりゃもちろん,相手が「大学生」だからです.それ以上でもそれ以下でも無い.
何度でも繰り返すけど、そんな思い込み、決め付けのために、やればいいことをやらない愚かさよ。
4年間、国立だって200万円以上の学費を払って、それに見合った教育効果が出ているのですか。現状はひどい。講義に出てこない学生、レポート課題を提出しない学生、試験を受けもしないで卒業間際にピーピーギャーギャーいう学生……大変なのはわかる。けれども、合格通知を出したなら結果に責任を持つべきでしょう。
学費を負担している人が満足しているならいいよ、でも実際は? それなのに香川大学の渡辺教授や産経新聞の記事では、怒ってる方がおかしいという。社会に優遇された殿様商売は、これだから困る。
大学って本当は研究機関の人材育成施設であって,社会人養成機関ではなかったはずなんだけどな。/まあ教育機関としてサービスに特化する方向もありっちゃありだが,すべてに求めちゃいかんよ
私は2つの方向から意見を述べました。ひとつは、事務局はもっとサービスをよくすべきだ。もうひとつは、学生の堕落を必然的に招く教育システムを改善せよ。
講義に出なくても勝手に学生が成長するなら、講義なんかやめて試験だけやってりゃいい。実際は違うとわかっていて、アホ学生ほど脱落しやすい。高校までならズル休みを「させまい」とする意欲が学校側にある。大学ではそれがゼロ。一番教育が必要な学生をフォローしない。こんな無責任な人材育成施設があるものか。
恐れ多くも試験を課して学生を選び、学費を受け取っておきながら、一番弱い助けが必要な学生をアッサリ見捨てていく。人は放っておけば堕落する、という程度の人間観察もできないのか、と思う。
大学より企業の方がボンクラには優しい。美しく凛として生きるためのインセンティブを人に与えるからです。だから学生時代を無為に過ごした人の多くが、社会人になると数年ぶりに成長軌道へ復帰します。何年も何年も何十年もこうした状況を座視してきた大学ほど、いい加減で酷薄な学校は他にない。
「学習支援」という枠内なら学生サービスの向上は歓迎です…。出席率を確保すれば顧客満足度が高まるというのはナイーブすぎかと。金城大学の事例のようにいろいろ方法があると思います。
就職率の上昇は景気回復の影響も大きいでしょうから、注意が必要です。また金城大学の事例は、やはり基本的に「自覚のある学生」を相手としているものと見えます。これでは底辺層は救われない。一番、顧客の不満が大きい層を放置するやり方でいいのでしょうか。
国公立大学の事務局サービスがいまひとつなのは文科省がそれでいいと思っているからかもしれませんが、学生が講義に出席もせずに遊び歩いて落第することを快く思っているとは考えられません。年度末に教授詣でする学生も不愉快なら、そもそもそうした状況を作り出してしまう大学の体制にも不満があると予想します。
問題の認識があって解決策もわかっているのに、なぜ何十年も放置されているのか。「大学かくあるべし」と非現実的な理想を掲げ、自縄自縛に陥っているからだ、というのが私の仮説です。現に質の低い学生を大量に受け入れているのだから、四の五のいっている場合ではないはずだと私は思うのですが、はてブのコメントなどを読む限り、今そこにある問題の現実的な解決よりも、永遠の理想を無為無策のまま追い求めることを是とする人が多いようですね。
現在、揺り戻しが起きているかのように、職員に関する研究や実践が蓄積されてきています。研究領域としての「学生サービス」って、とても重要だと言われているんですね。
私の出身大学でも、ちょうど私の頃、就職活動支援体制の充実がどうのこうのというので、先生方がぼやいていらしたことを覚えています。どえらい仕事が増えてしまった、と。
けれども蓋を開けてみれば、「君ならどこかには就職できるでしょ」というクラスの学生ばかりが様々な制度をガンガン活用して、「あー、ヤバそうだなあ」という学生はやっぱり年度末のギリギリになってから制度とかすっ飛ばして気安い先生に泣きついたり、どこかへ行方不明になったり。
卒業式だけはひょっこり顔を出したから「おい、君、就職は決まったのかね」「すんません、プーです」「大丈夫なのか」「ヤバいっす」「何とかしてやりたいが、もう卒業だしなあ」「いいっすよ、先生の問題じゃないし」「……」でも、じつは先生の問題でもあるはずなのです。
卒研の学会発表が卒業式後にあったわけですが、就活支援制度の成果として、制度を利用した内定数などを記録し、「たいへん厳しい就職戦線でしたが、我々の努力が実ってこれだけの成果が……」と教授会で発表されるのを聞きつつ、やっぱり先生、思ってたそうです。「制度なんかなくたって、彼らは就職してたろう」
大学の学生サービスは、最底辺の学生を救う視点を欠いています。民間企業では全社員に健康診断を受けさせます。それが義務だと認識している。大学が学生を預かってプー太郎に育て上げる。それが当人の希望であり理想であるというなら、何もいわない。現実は違う。人は希望に反して堕落してしまうのであり、だから教育機関というものがあるのではないのか。
組織はシステムを作り、弱い個人を堕落による破滅から救う。放っておけば授業をサボってしまう学生、何の身にもならないコピペレポートを作ってしまう学生、就職活動に絶望してフリーターに流れてしまう学生、彼らを救わずして何が教育機関か。底辺を切り捨てる組織の教授などが格差社会を語るなどちゃんちゃらおかしい、と思いながら本を読んだりしています。