趣味Web 小説 2007-04-06

福耳さんへ・1

もちろん僕以外の先生方は、そういう心理的正当化をせず、一生懸命学生の可能性に期待をしてそれを目覚めさせることに希望を失わないというすごい方もいらっしゃったけど、少なくとも僕は根が傲慢な人間なので、「これ以上彼らと向き合い、彼らに対してちゃんとした講義をする自分への動機づけのために、自分に無理やり彼らの可能性への希望を持たせていても、無理を感じて、そのうち僕は彼らを“あからさまに見下してしまうのではないか”」という恐怖がありました。

あえて書くのだけれど、見下していいのでは。頑張って教えたところで、ほとんど何も身につかない。そういうものだと認めてしまえばいい。

「腹を割って話す」の思い出(2007-03-10)では私が「腹」について熱弁を振るった様子を書きましたが、それから7年余り、もうその生徒は全部忘れてるでしょう。私の顔もね。冬期講習の最終日に意外な問題に正解して喜んだことも書きましたが、その一方で、「これ、教えたはずなんだけどなあ」という問題をボロボロ落としてもいました。

痴呆症の人とお話をするボランティアがあるそうです。何度同じ話をしても、当たり前ながら、ひとつも覚えてもらえない。自分の顔さえ会うたびに忘れられてる。「面白いですか?」「どうかな。落語や歌舞伎みたいなものでしょ。同じ話を何度も繰り返してる。静かに聴いてくれるのが嬉しい」

福耳さんは教育に成果を求めるから疲れてしまうのです。教室に生徒が来たなら先生も必要です。それだけのこと。授業は、すること自体に意味がある。

個人的に、**ができたら幸せになれる、という言い方は避けたいと思っていた。なぜなら、やっぱり全員がテストで満点を取れるようにはならないからだ(一撃を食らっても全然改心していない)。トップクラスへの展望がない、底辺で悩む子どもに功利主義で勉強の意義を説くのは、残酷ではないか。彼らはその果実のほとんどを手にできないのだ。向学心を最後まで支えるのは、学ぶこと、それ自体の魅力なのだと私は信じる。

私は以前、こう書きましたけど、私がきれいな言葉で表現したものの実態というのは、少なくとも現在の社会で胸を張って口にできるようなものではないことが多い。

「学ぶこと、それ自体の魅力」といっても自己の成長とは限らない。「学ぶ」という名目の猶予期間の魅力、やりたいことがとくにないから周囲を慮って消極的に選択された「学ぶ」という名の恩返し、「学ぶ」人間の特権的身分への安住、就職という一種の「結果」からの逃避、自分より「下」の人間を見て安心するための教室、後ろめたい気持ちなしに楽しく遊ぶための講義への出席、そういったろくでもない動機で集まっている学生が大半だと思ってもそう大きく違わない。

補習塾だってそうです。お勉強するのが楽しいと思っていて、それでやってくる子なんかいない。まあ、いるんだけど、いないとみなして差し支えない。「塾の先生なら、少しは頭をよくしてくれると思うから」といった子だって、散々「勉強なんてくだらないよ」「どうせ俺には関係ないよ、こんなの」「バカだもんね」「いいよ、わからないままで」「難しいこと考えると気分が悪くなるよ」と弱音を吐いていた。

「そうだね、お勉強なんてくだらないかもね」「ここで学んだことは、この先の人生で一度も役に立たないかもね」「少なくとも今のところ次回のテストで100点を取れそうにないことは確かだ」「先生にとっては、分からないままでは責任問題だけど、キミにとっては取るに足らないことかもしれないね」「気分が悪くなったら休んだ方がいいよ」

「ところで、毎週毎週、授業に来てくれてありがとう。どうして、そんなに頑張れるの?」

「さあ……」「わからないよ」「塾に行かないと、もっといろいろ面倒くさいんだよ」「……(何このキモい教師? 風のジト目でこっちを見る)」「別に、頑張ってるわけじゃないよ」などなど。一人一人の生徒は多くを語らないけれども、これらを全てひっくるめた感情が、どの生徒の中にもあるのだろう。

単に「いまの学生は無知で無気力だ」というだけなら、僕だってどこまでも噛み砕き、ネタを混ぜ、まだそこそこ頑張れたと思うのです。自分でいうのもなんだけれど、僕は「はなしをやさしくおもしろおかしく演出する」ことは、自分の知っている大学関係者を見ても、かなり得意な方だと思います。でも、問題は実はその根底にあって、彼らの多くはもう「自分を見捨てて」いて、「どうせ自分は就職活動もうまくいかないし卒業したらフリーターだしそれはもう自分たちも楽しくない人生なのは目に見えている」と思っている、そういう学生にとっては、僕のような「ひょっとしたらここまでやさしく面白く噛み砕いて話してくれる講師の講義にちゃんとつきあえばまだなにかちょっとはいいことあるんじゃないか」というささやかな希望を抱かせること、それが実は、一番迷惑で、彼らにとって「ウザかった」のではないかと思うのです。

(中略)その自己評価の問題をまずなんとか和らげなければ、なにもかも虚しい努力だと思います。

「博士が愛した数式」の博士は数十分で記憶が消えます。だから主人公は毎日自己紹介する。これって無駄な努力? ちがうよ、というのが物語の趣旨。人間なんて、みんなこの博士と大同小異です。「暑苦しいんだよ、ウザいぜ、福耳さん」そう思っても生徒は教室に来た。虚しくなんか、ありません。

熱心な先生が、その熱心さゆえに教壇を去ってしまうのだとすれば、本末転倒との印象を持つのは私一人ではないでしょう。あまり多くを背負っても、仕方ない。自分に救えない生徒がたくさんいるのは、当たり前のことです。私も福耳さんも、ただの人間です。自在に奇跡を起こせるという救世主じゃありません。

苦しむ生徒を見てられないと仰いますが、学校は修行の場なのだから、苦しくて当たり前なのです。大学は他の学校よりずっとサボりやすいのだから、もうダメだと思った学生は、ちゃんと逃避しますよ。福耳さんはもう少し、生徒のことを信じていいと思う。

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