連休中、久しぶりに実家へ帰ったので、記憶の不確かなところをいくつか訊ねてみた。
私が備忘録に書いてきたような思い出話は、私が曖昧な記憶の断片を都合よく再構成した物語であって、事実とはかけ離れている……ことを、あらためて思い知らされた。
例えばオートバイのマフラー(消音器)に触れて火傷をしたのは私ではなく弟、弟が触れたのは母のではなく父のオートバイ、その後間もなく母のオートバイが消えたのは、子どもを火傷させた機械を嫌った母が売ったからではなく、盗まれたから。私が火傷したのは炊飯器から立ち上る湯気を捕まえようと頑張ったが果たせず、ついにその出て来るところを手で押えることを思いついて実行した結果で、弟が火傷をする数年前の話。
おいおい、全然違うじゃないか。
ちなみに父がオートバイを買った経緯は、結婚当時に乗っていたオンボロ車に飽き飽きした父が、母が私を産むため愛知県へ帰っている間に、密かに免許を取って勝手に購入したというもの。その後、オンボロ車は部品の脱落を起こし、手放すことになった。代わりの車を買うお金はなく、母の移動の手段としてもう一台バイクを買ったのだというが、旧法では普通免許で高速道路を走れる最小限の二輪車にも乗れたのだろうか。
もしわざわざ母も二輪免許を取ったのだとすれば、私の物語にも一片の真実はあったということになろうかと思う。成田へ引っ越したときには車がなく、夫婦でバイク2台に乗ってきたのだそうで、まだ街灯も整備されていない空き地だらけのニュータウンでセブンイレブンの明かりだけが心強かったという話には、新たな感慨を覚える。
私はこれまでずっと、両親は車の中からセブンイレブンの明かりを見ていたのだと思っていた。(それはそうと、私はそのとき、どこにいたのだろう? 既に2歳になっていたはずなのである。オートバイで母子二人乗りって可能なの?)
1975年9月4日、過激な極左グループ中核派は横須賀市緑荘爆発事件を起こし、父の親友の命を奪った。その中核派が大規模な革命闘争を展開したのが成田空港(三里塚)であり、成田ニュータウンの空港公団幹部宅は夜な夜な放火の標的とされていた。
1982年、平和を愛する一市民、資本主義の底辺を支える一労働者として、地域の経済発展に貢献し、人々を幸福にする志を立て、父は成田ニュータウンへと移住する。母は父が家庭に復讐の感情を持ち込むことを許さなかった。しかし父の志には共感し、父に伴走して真っ暗闇の街へ乗り込んだのである。
父は1948年生まれ。ウルトラマンは1966年放送。同世代の普通人はウルトラマンをリアルタイムに見ていないのだが、父は見ていた。小学生同様ワクワクしながら見ていたという。後にも、私が怖がっているのに「北斗の拳」のアニメ版にハマり、「隆夫にマンガを買ってやろう」と母に提案したエピソードが残っている(ようは自分が読みたかった)。
古(いにしえ)の横スクロールアクションゲーム「ロックマン2」の曲に「思い出は億千万」と題した歌詞をつけたら大ヒットしたのだという。YouTube では様々なミュージック・ビデオが公開されているが、ロックマンのプレイ動画を使用したバージョンにはとくに胸打たれた。
ティウンティウンとやられても、やられても、ワイリー博士の侵略基地へ突入していくロックマン。もとは家事用ロボットだったという設定がある。「思い出は億千万」の歌詞は全くの懐古調だが、映像と重ね合わせると、かつてウルトラマンからもらった億千万の勇気を胸に、戦場へ身を投ずるヒロイズムが見えてくる。
空港とともに発展してきた成田。私は豊かさの恩恵を一身に受けて育った。ニュータウンの中心部に建った百貨店の屋上から中層マンションが林立し活気あふれる街を眺め、両親の長い長い歩みを思う。エンディング、一人歩み去るロックマン、世界は再び春を迎える。
間違い探しの続き。父方の祖父母は農業を営んでいた。最初、農業を継いだのは父(次男)。その1年後、会社員となっていた伯父(長男)が都会になじめず戻ってきたので、「兄弟で土地を争ってはならぬ」と祖父が父を家から追い出したのは事実。
しかし父が倒れた場所は、東京ではなく名古屋。食うに困らない仕事ということで調理師を目指して豚カツ屋に就職したが、慣れない仕事に全力投球した挙句、残り物の豚カツばかり食べ続けたので、体調をおかしくしたのだという。栄養失調ではなかった。顔色は悪く、やつれて見えたが、体重は結構あったらしい。
調理師免許を取って意気揚々と東京へ進出した父、しかしオイルショックの影響か、飲食店業界は有為転変激しく、勤務先がどんどん倒産してしまう。それでたいへんお金に困って苦しんだ……これは本当。だがその背景には、競馬や競艇といった公営ギャンブルが大好きだったという事情がある。
父は生活苦でサラ金からお金を借りたというが、母にいわせれば「失業保険で賭け事をする方がおかしい」。借金苦で自殺する人が多かった時代にあって、父はふたつの仕事を掛け持ちして借金をきちんと返したことが自慢なのだとか。さすがに懲りたと見えて、結婚後、公営ギャンブルに手を出したことはない。
……とまあそういうわけで、私の書いてることは話半分に読んでください。
この際だから書くが、「結婚後、父は賢い母のおかげで二度と貧苦に陥らなかった」というお話には、私が意図的に隠した事実がある。
名古屋で倒れた父を不憫に思った祖父は、一計を案じて父を曾祖母(父の祖母)の養子とした。曾祖母は私が1歳のときに亡くなり、父は山の一部を相続する。祖父は「畑は分けられないが、山ならば」と考えたのだ。父は遺産を担保に借金をして、成田ニュータウンの公団マンションを買った。
私が小学生のとき母方の祖父が亡くなり、母は遺産の一部を相続した。この遺産は大きく、借金を完済してもなお余裕資金があり、1999年に一戸建てへ引っ越す原資となった。ただ、母は浮いた住居費を蕩尽せず、堅実に貯蓄してきた。金だの保険だの知恵を絞ってきた甲斐あって、意外に大きな運用益が出た。
その運用益で、父は株取引を楽しんでいる。弟が相続するのは、一戸建ての家と、土地と、借金返済の代わりに母が積み立てたお金である。
本当は祖父の話もいろいろ書いてみたいが、しばらく家族の話から離れようと思う。だいたい私の記憶には間違いが多すぎる。本人が読んでも自分の話と思わないくらいだ。逆にそれくらいの方がよろしい、という考え方もありえるが……。