私の備忘録を読んでいる方々は、徳保隆夫ってバカだなあ、と思っているかもしれない。
私はだいたい「優秀なほう」で通ってきました。小中高大学、多少の波はあれど、ずーっと上位2割以内をキープ。とくに国語の成績は良くて、(私の属する小さな世界では)常にトップクラスでした。代ゼミの模試で偏差値80台を出したときがピークかな。ようするに自慢すると恥をかくが謙遜すると嫌味になるレベル。
注:実際、古い知人のいる場で「自分がいかにバカか」という話をしていたら、「オマエよりずっとバカな俺はどうなるんだ? えぇ、オイ!?」とか怒り出してしまった。妬み嫉みを恐れることも大切だが、ある程度はそうしたものを背負っていくのも社会生活の必要経費かと思う。役割分担の責任を負う、といってもいい。
その私にして、「話し言葉でないと頭に入ってこない」は常々実感してきたことなのです。ふつうの参考書が嫌で、「実況中継」「実況放送」シリーズを愛用していたりして。
生育環境が悪いんだ、が正しいとして、何かうまいことをすれば抗うことが可能なのかどうか。私くらい、本が好きで、書き言葉をたくさん読んできた人間でさえ、少なくとも「お勉強」となると「書き言葉キラーイ」なのです。「うおお、アタマが受け付けないッ」自分でも意識できるくらいの拒絶感があります。
私は毎年、最低でも100冊くらいの本を読んできました。最近はやわらかい本中心だけど、それでも昨年だって「春秋」を読んでいたりする(少しも頭に残っていないが……)。
賢い人たちが私をバカ認定するのは、いいんです。その人にできることが、私にはできないわけだから。でも、これを一般人でも改善可能な問題と捉えているような一部の反応には、「そうかなぁ」と。
この制約を与件として対処しようとする福耳さんのスタンスに、私は賛同します。
コメント欄やはてブの反応を見てて思うのだけれど、世の中、賢い人ばっかりなのね。最近バカが多くて困る、みたいな話題になったとき、「ホント困ったもんですよね」みたいな反応が妙に多い。この比率は、あまり現実的ではない。
もっとも、それはこの備忘録も同じ。偉そうな言葉であふれてる。そんなにお前はすごいのか。いいえ、違います。ごめんなさい。わかっているならなぜ、と自問してみるに、「身につまされたときには黙ってるから」かな、と。それから、嫌な話は無意識にシャットアウトしている。あと、ホントに自分が見えていない。
……趣味のブログですし、書きたいことばかり書けばいいんですよ。だけど、自分で読み返して、ひとつひとつの記事はそう悪くないと思っても、全体として恥ずかしい。エラソーなことばっかりいってて、何なんだ、と。だけど、新しく書きあがるのは、またまたエラソーな文章。いやんなる。
「できてる記事があるなら、公開してくれると嬉しいです」みたいなメールをいただきました。「いやんなる? それがオマエだろう。現実から目を逸らすな。カッコつけてんじゃねぇよ」というイイワケは既に考案済み。いずれ更新ペースが元に戻っても、何も問題は解決されないままでしょう……。