趣味Web 小説 2008-06-27

共感できることしか理解できない人々

1.

「体験イベントの参加者をボランティアと呼ぶ」ことが、一部の人の反応にせよ、こんな問題になるようなことだとは知らなかった。農作業の手伝いとか、寺社での小坊主体験とか、いろいろなお仕事が、ボランティアとか奉仕活動といった名目で人を集めて行われているのだが。

一度でも、こうしたイベントに参加したことがあれば、それなりに楽しいものだということはわかると思う。いや、違うか。楽しいと思えるような人しか参加していないのか。だから、生涯こういうのに喜んで参加するようなことのない人々の反応は、「進んで奴隷になりたがる人なんているの?」でおかしくないのかも。

ともかく、言葉遣いに違和感がある、という程度のことで非難の集中砲火を浴びせるのを「正しい」と考える人がたくさんいるわけだ。なぜ世界の多様性を許容できないのか。

2.

ところで、「ボランティアという言葉をこのようなケースで用いるのは、不適切だと思います」というような異見の表明なら、賛同するかどうかは別として理解はできる。しかし上記のリンク先に並ぶ言葉はどうだろう。

こちらは高樹擁護の記事だけど、同様の疑問を持つ。なぜこのように書くのか。

この界隈には、藁積みを楽しいと感じる人が集まっている。だから個人の住宅や営利目的の施設の建設作業を無償で手伝う「ボランティア」は珍しくない。だから高樹沙耶さんのブログ記事は、その道の人には注釈なしで通じる書き方だった。……そう説明すれば十分ではないだろうか。

ひとつの記事だけを見れば言葉足らずかもしれないが、言葉は文脈を背負っている。

「誤解するのが当然」といい、嘲笑と罵倒をぶつけたことを反省しない人々がいる。自らの不分明に甘く、言葉に何の責任も持たず、ひとを傷つけて恥じない。なぜだ。関連:無責任くらべ(2006-03-11)

3.

私自身が「藁積みをぜひやってみたい!」と思うかといえば、それはノー。強制的に参加させられたら、「労賃をくれ」という。でも、喜んで藁積みに参加する人の気持ちはわかるつもり。本当にはわかっていないにせよ、少なくとも自分自身を納得させることはできる。

共感できることしか理解できない、納得しない、という人が世間にどれくらいいるのか知らないが、リンクした2chのスレッドくらいの割合だとしたら、気が滅入る。

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