趣味Web 小説 2009-04-15

手をあげる人が色眼鏡で見られない社会を望む:日銀の審議委員人事

日本の経済学者は自説を実践しようとせず、他人のやることを批判するだけだから「偉そう」といわれるんだ、という意見が一部で話題になっている。

岩田規久男さんや浜田宏一さんが2000~2001年に「日本銀行の政策審議委員にならないか」という打診を蹴ったことを知ったとき、私は怒った。今でも、職業選択の自由は誰にでもあるとはいえ、個人的には「許し難い」と思っている。岩田さんの著書には大いに蒙を啓かれた。だからこそ、悲しいのだ。

岩田さんと浜田さんが審議委員になっていたら、10万人くらい自殺せずにすんだんじゃないか。もちろん、実際に審議委員になって、日本の不景気を放置してきた人がいちばん悪いよ。それはそうだ。岩田さんや浜田さんに直接の責任はない。でも、間接的には多少の責任があると思う。次は絶対に引き受けてほしい。

日銀と大蔵省の出身者以外で、日銀の審議委員に「なりたくてなった」という人を知らない。退任後のエッセーなどを読むと、みな一様に打診されて驚き、恐縮して尻込みして、「そこを何とか」と説得されて就任されたようだ。

公職につきたがるのはロクな人物ではない、という社会通念は疑問だ。政治家や官僚が故なく蔑まれたり、審議会の招きに応じた有識者が、その主張に関わらず「御用学者」呼ばわりされたり。雑誌で日銀を批判している学者さんたちが、ストレートに「俺に任せろ」と意思表明できるような、そういった社会を私は望む。

わかりにくいんだよ。一見して明らかなど素人が「ああしろ」「こうしろ」という言葉の一つや二つが「なるほど」と思えたところで、「じゃあこの人に任せよう」とは誰も思うまい。本人も放言のつもりだろうと考える。でも**大学教授とか**証券主席研究員みたいな人の発言ならどうか。

日銀の政策審議委員は、日本の金融政策を決める最高意思決定機関なのに、自称「素人」が何人も混じっている。批判している側の方が、肩書きも過去の発言暦もはるかにそれっぽい。素朴に「おかしい」と思う。

実行力のある立場になると、足を引っ張る人が多すぎて、精神的にキツいんだろうな。能力より人格、あえて火中の栗を拾う胆力が最大の条件になってしまっているんだろう。

弾さんの記事とは裏腹に、何だかんだいって、審議会とか有識者会議の類なら、経済学者も経済評論家も、よく顔を出している。個人の人生のコースを外れず、最終的な責任は負わないレベルまでなら、社会に貢献するため努力されている。それ以上を求めるのは酷だ、とは思う。思うけれども、腹立ちは収まらない。

まあね、自分が勉強して社会に一目置かれるような学者になって社会を救うぞ、という気概のないヤツが何をいっちゃってるわけ? といえば、その通り。岩田さんを批判するなら、自分が岩田さんの代わりになればいいのに、っていう。こういう「口先だけ」な自分の延長上に、今の不景気があるんだろうな。

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