趣味Web 小説 2009-08-23

2009年の課題図書で読書感想文「時間をまきもどせ!」

時間をまきもどせ!

見知らぬ他人を怖がって銃で撃ってしまうアメリカ人だけど、顔見知り程度のベビー・シッターのことは不思議と信頼するんだよね。幼児だけで留守番させると虐待として罰を受ける国なのに、ローティーンのベビー・シッターが珍しくない。日本とはずいぶん感覚が違う。

幼少の頃は子どもにプライバシーなんかなくて、むしろ何から何までチェックして「ふさわしくない」ものを排除することが推奨されたりするが、小学校卒業くらいの年齢になると、一転して子どものプライバシーが大人と同等に保護されたり。そして子どもの自由が急に広がっていく。

この物語では、主人公の両親が、主人公のクラスメートに幼児の面倒を頼んでパーティーに出かけることが悲劇の種になる。ところが最後までこの両親は誰からも責められない。たいへんな目に遭った主人公も、両親を恨むことはない。

日本の読者にはこれに納得できない人が少なからずいるようで、「リアリティーがない」「無責任だ。許せない」「中学生にこんな重荷を背負わせる親が悪い」といった内容の感想をいくつか目にした。でも、舞台がアメリカなのだから、私たちの常識は通用しないんだな。もちろん、日本の読者が日本の常識に基づいていろんな感想を持つのは自由なんだけど、相手の事情をもう少し理解した方が物語を楽しめるはず。

アメリカはそれほど公的な子育て支援策が充実しているわけじゃない。それでも、日本と較べたら子育てがラクだ、という人は多い。親だって四六時中子どものために自由を奪われているなんて嫌だよね、という感覚が社会に埋め込まれている。電話一本でベビー・シッターを頼んで夫婦水入らずでデートへ行ける社会に慣れたら、日本で子育てなんか窮屈でやってられないだろうな。

日本だと子連れ入店お断りの居酒屋が子育て層(の一部?)から批判され、逆にそういう人が「身勝手」とか「親の自覚がない」などと批判されたりもする。面白いのは、電話一本で子どもの世話を他人に任せられる社会にしようぜ、という意見が誰からも出てこないこと。アメリカだと酒場に子どもを連れて行くと公機関に注意されたりする代わり、幼児の親でも気軽に酒場へ通える仕組みが用意されているわけだ。

さて、日本の中学生は、都合のいいときばっかり「もう子どもじゃないでしょ」といわれて、実際には完全に子ども扱い。学校が当たり前のようにアルバイトを禁止してくれたり。持ち物検査とかもね。ナイフだ銃だという話じゃなくて、漫画や携帯電話や化粧品を取り上げる、なんて文脈だから嫌になってしまう。

その点、この物語の主人公には、いろいろな自由と、責任ある仕事が与えられている。その責任感が、物語を駆動するエンジンとして機能する。

学校でクラスメートの女の子を怒らせてしまった主人公は、その晩、「ベビー・シッターには行けなくなった」という女の子の電話に頭を抱える。両親はパーティー、幼い妹はクラスメートに任せ、自分は友人と一緒に移動遊園地へ行くつもりだったからだ。両親との押し問答の末、不本意ながら主人公が幼い妹を連れて遊園地へ行くことになった。

作者がいちいち説明していないことを少し補足すると、アメリカでは大人の集まりはだいたい子連れ禁止となっているから、両親が幼い娘の面倒を見るなら、パーティーへの参加自体を諦めるしかない。これに対して、主人公が行く予定の移動遊園地は妹連れでも行ける。友人と二人で行く方がいいに決まっているけれど、家族全員の幸福総量を最大化するのは、主人公が我慢する案、ということになる。主人公は一人前の年齢なので、子どもだからかわいそうなどといって親の方が無理に我慢したりすることはないのだ。

遊園地は楽しい。主人公は、まだ判断力の乏しい妹を独りぼっちにしてはいけないとは思うものの、どうしても友人と一緒に幼児連れお断りの激しい遊具に乗りたくなってしまう。「絶対にここを動いてはいけないよ」と妹に繰り返し言い含めて主人公は行列に並んだのだが、犬が大好きな妹は、ふらっと現れた野良犬を追いかけて道路に飛び出し、車にひかれて植物状態になる。

悲嘆に暮れる主人公は、夕方に家を飛び出したとき、ヘンな老人から人生やり直し機「パワー・オブ・アン」を貰ったが、どこかへ落としてなくしてしまったことを思い出す。

その後、主人公は機械を無事に発見し、人生を少しだけやり直す。だが奮闘も虚しく、今度はクラスメートの女の子が主人公の妹を助けて車にひかれる。再挑戦。ついに主人公は捨て身で悲劇に立ち向かう……。

こういう物語を読んだら、主人公の勇気に感動するのが素直な読み方なんだろうと思う。でも、私は違うことを思った。この作品の主人公は特別な人間ではない。だから共感できる。そんな彼が、いきなりヒーローになって読者を感動させるなんて、ヘンじゃないか。

少しページを戻して何度か読み返してみるうち、「作者は恐怖を描いているんだ」と考えたら、ストンと胸に落ちた。自由が極大化すると責任もどんどん重くなって、ついには平凡な人間が持つ巨大な死の恐怖さえも凌駕してしまう、これはそういう怖い話なんだ、と。

人生は偶然に支配されている。主人公の妹の前に野良犬が現れ、その野良犬が妹を危険へと導いたのは、偶然のはずだった。人生を何度もやり直した主人公だけが、それが何度でも繰り返される必然だったことを知っている。

予測不能の事態に、人間は責任を取れない。だが、何が起きるか知っていて、そして自分はそれを止められると確信していながら、傍観者でいられるだろうか。しかも不幸が襲い掛かるのは、赤の他人ではなく、自分自身でもない、よく知っている身近な人なのだ。

繰り返された悲劇は、主人公のリミッターを破壊する。

彼は人生を15分だけ巻き戻し、なりふり構わず人ごみを掻き分け、捨て身の覚悟で全力疾走し、最後には思いきりジャンプして危険の核心部へ突っ込んでいく。それまでは、ただ祈ったり、大きな声を出したり、そうした平凡で無力な反応しかできなかったのに。

人生をやり直す機会を得て、彼は小さな願いをいくつか叶えた。この人の手に余る自由は、失われた人生の復活さえ実現した。だがそのために、主人公は生涯最大の恐怖に支配され、大きな代償を支払い、残された人生の大半を費やして解決すべき課題を背負わされることになる。

でもこれって、意外と「勇気」の本質なのかもしれない。自分には選択肢がある、そう思えたとき、人は恐怖から超人的な行動をとってしまう……。

主人公は、悲劇の元凶とも思える野良犬を、妹の希望を受け入れて飼うことにした。この犬が彼のその後の人生を支えていくことになるのだから、縁とは不思議なものだ。

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