趣味Web 小説 2009-09-20

ブロガーの報酬

1.

このところ私の視界に入ってくるブログではあまり見かけなくなってしまったランキング投票のボタン。あれをウザイとかいって攻撃する意見もちょくちょく目にしてきたんだけど、私は違う意見を持っています。

人間は基本的に、やりたくないことはやらない。とくにブログなんてのは趣味の領域なんだから、文章を書いたり写真を撮ったりして投稿するのに見合った、何らかの「報酬」を期待するからこそ、更新が続く。

2.

「報酬」といっても、ふつうそれは金銭ではありません。

例えば、このブログは長らく、日々のとりとめもない思いを形にして残すことを目的としていました。数年後に、自分が読み返して楽しむことを想定したのです。しかし私は、「未来の自分が我慢すれば今の自分は面倒な文章書きから解放される」という状況では、目先の苦労を疎んじて、ほとんど何も書けませんでした。

最初の200字くらいを書くのが難題なんです。何とかして200字書けば、後は勢いがついて最後までいける。書きたい、けど最初の一歩を踏み出すのがつらい。情けない話です。

ふがいない自分にガッカリしていた私に、救いの手を伸ばしてくれたのが、数人の読者の存在でした。知人のサイトに文通の内容をリライトして転載してみたら、それを読んでくれる人がいたんです。毎日1~3人の訪問者の存在が、私に「最初の200字」を書くエネルギーをくれました。

その後、数年間あれこれ書いてみて、「ここしばらく、過去記事の焼き直しばかりだな。えっ、自分ってこんな考えを持っていたの!? と驚くことがなくなっちゃった。これ以上、書き続けても、未来の自分が過去記事を読んで「またこの話?」とウンザリ顔をするのが目に浮かぶ。しばらく休もう」と思うに至りました。

私にとってブログを書く最大の動機は「将来の自分が楽しむため」であって、読者の存在は一歩目の支援には有効だったけど、それ以上のものではなかったわけです。

わかりにくい例え話をすれば、「将来の自分が楽しむため」が過酸化水素水、読者の存在は二酸化マンガン(触媒)で、完成した記事が酸素、という感じ。過酸化水素水からボコボコ酸素を出すためには二酸化マンガンが必要なんだけど、肝心の過酸化水素水が薄まったら二酸化マンガンを増やしても酸素は出てこない。

3.

といいつつ、今も私が(更新頻度を落としつつも)ウェブでの活動を続けているのは、「報酬」を多角化したからです。そのひとつが、社会をほんの少しだけ変えること。

これは2004年に私が奮闘した記録です。小さな狭い世界でのことではあったけれど、HTMLとCSSのひどい解説書に引き寄せられた多くのカスタマーに、良い解説書を紹介することに成功しました。(*私の活動とは関係なく、2004年以降、良書が多く刊行され、HTMLとCSSに関して完全に間違った解説書は減っていきました)

Amazonにカスタマーレビューを投稿し続けるのは砂漠に水を撒くような作業です。アクセス解析できないつらさを、思い知りました。それでも、マイナーな自分のブログで、さして上手くもないレビューを書き続けたって、良書の売上を伸ばすことは不可能です。ましてや、ダメな本に魅力を感じる方に翻意を促すなどできるわけがない。私はAmazonで戦わねばなりませんでした。

レビューするためには本を買って読まねばならず、お金も時間も相当に費やしました。売上ランキング上位の顔ぶれはゆっくり改善されていきましたが、その歩みは日々の心の支えとするには、あまりにも緩慢。私の日々の活動を支えてくれたのは、レビューの「参考になった」票だったのです。

注:

私のしたことは、褒められたことではないと思う。個人の信念で言論の暴力による「戦い」を仕掛けるのだから、これはテロ活動に他ならない。その自覚があるなら、やり過ぎてはいけない。もし悪書の信奉者が同じことをしたら……と考えてみれば、私の行為の危険さは明らか。

私は2004年の戦いについて反省しており、以後、「意図的に悪書を100冊レビューして良書に誘導する」といった強烈な方法は避けています。もちろん、たまたま手に取った本がひどい内容だった場合は、批判的なレビューを書き、良書へ誘導します。でも、それ以上のことは。

4.

RSSリーダーに記事全文を入れるとか入れないといった話題が盛り上がったとき、「ブロガーというのは自分の文章を大勢に読ませることが一番の目的なんだから、全文を入れて、RSSリーダーだけでウェブ巡回を済ませたい読者に便宜を図るべきだ」といった意見に私は賛成できませんでした。

大勢に文章を読ませることが一番の目的ではない人も少なくないだろうし、仮にそれが一番の目的だとしたって、日々の更新を支えるエネルギー源は別のところにあるかもしれないでしょう。

私もブログを書いていて思うのだけれど、アクセス解析を見て1日の読者が1万人とかになっていても、手応えがない。昔はサーバーが落ちたりして「うわー」とかありましたが。私がはてブでコメントを募集している理由の何割かは、「本当に大勢が読んでいるんだという実感がほしい」といったものだったりします。

だから、「また新しい記事を書こう」という意欲の源になるのは、読者のブログで肯定的に紹介されたり、はてブで好意的なコメントをもらったり、といった目に見える反応なんだ……といった意見に、私は共感できます。私自身はRSSに全文を入れていますが、別の判断もあっていいはずです。

つまり、読者が単に「読む」だけでは、著者にとっては「正当な対価」にならないかもしれない。

「RSSに全文を入れないブログなんて俺は読まないぞ(それでもいいのか?)」というような恫喝も目にしたけれど、著者が「自分の文章が読まれている実感」を「報酬」と位置付けていることに、なぜ気付かないのか。

金銭の授受はなくとも、ブログには著者と読者の擬似通貨のやりとりがあるのです。著者の求める対価を拒否する読者が、「だったら商品なんかいらないよ」というのは滑稽な話です。それは著者のセリフですよ。「だったらあなたに商品は渡せないね」と。

5.

ブログの更新を続けるモチベーションは個人的なものなので、あるブロガーの気持ちに「あなた」が共感できるかどうかは問題ではない。

ランキングの投票をしてほしくて仕方がない人を嘲笑したって、ページビューの割に投票が少ないことに憤慨する人の気持ちを変えらるわけがない。私が思うに、もし説得を意図しているならば、無言の読者の存在がどれほど有意義かを説き、ランキングの他にも「報酬」はいろいろあるのでは、と語りかける方がいい。

ブログの動機付けなんて、ひとつの価値観で世界を塗り潰す必要性の乏しいテーマでしょう。こんな話題でさえ、自分と似た考えを持っている人同士で、「理解できないね」「こういうのは嫌だね」「消えてなくなるといいのにね」「ねー」なんてやっているから、生き難い世の中になるんだと思う。

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