「全ての價値は相對的」と云ふ「良い價値相對主義」なんてものは成立たないのであつて、全ての價値相對主義者は「價値相對主義なんて認めない」と云ふ價値觀を絶對に認めない。即ち、價値相對主義だけは絶對の價値であると心に決めてゐるので、それは「自分の價値」だけは絶對に讓らないと云ふ思想にほかならない。
いや、別にそれはそれでいいんですよ。というか、そのための相対主義でしょ。いや、よくない、という哲学者もいて、そういう議論はたいてい私には全くついていけない難しげな文章だから読むに読めないんだけど、例外もあります。
この「大学デビューのための哲学」の中で、入不二基義さんが担当している章が、それ。その論文を発展させたものが「相対主義の極北」で、今年ちくま学芸文庫に入ったらしい。正月休みにでも読んでみようかと思ってます。
だけど入不二さんの議論は正直、一般人の生活レベルからは隔絶してる。読んでいるそのときは面白いけど、半年くらい経つと、もう思い出せない。それはもちろん、私がよく理解していないことが第一の原因だろうけど、やっぱり日常生活からフィードバックを得るのが難しいから、というのもひとつの理由だと思う。
この本の第3章くらいの議論が私がいろいろ考えるにはちょうどいい書き方。永井さんが説明するように、相対主義とは、相対主義を絶対視するという意味では、絶対主義なんです。その水準では。だから絶対主義を100%完全に否定する相対主義はない。でも、前述のただ1点を除けば相対主義なんだから、ほとんどの問題については、絶対主義と対立することになります。
それだけの話、なんですよ。ひとつ絶対主義を受け入れたら、他のあれこれでも絶対主義を受け入れなければならない、なんて理屈はない。いや、あってもいいけど、そうは考えないのが相対主義です。
價値相對主義が、「全ての價値は相對的」と云ふものならまだいいのだけれども、結局は「他人の價値は相對的」と極附ける事で自分の價値を絶對化し、自分が負けないやうにしようと云ふ理論武裝でしかない事が非常に多いので、本當に困る事が實に多いのだ。
素朴に、「議論の前提が違う」というような言い方をすることが多いですかね、私は。
だいたい論理的に破綻したことをいっている人というのは、そうそういない。頭がこんがらがるほど、複雑な論理を操っている主張なんて、滅多にないわけで。にもかかわらず「矛盾している」といった評が出てくるのは、つまるところ、議論の前提を再定義しているから。
双方が話の前提を図解してくれていて、わかりやすい。
野嵜さんの最初の言及の書き方、対する長尾さんの「誤読」という言葉でギスギスして見えるけれども、結局のところ、長尾さんはとくに何を反論しているわけでもない。野嵜さんの関心事に引き寄せて解釈すればそういう風にも読めるでしょうね、私の意図とは全く違いますけどね、という感じ。
賛同してくれなくてもいいから、理解はしてください、とは私もよく思うこと。「あなたが仰りたいのはこういうことですよね?」「ええそうです」「しかし私は、ここから別の解釈も引き出せると思うのです」「なるほど」……なかなかこう、うまくはいきませんが、成功すればどちらもイライラせずに済みます。