最終的に感情論に逃込まれるのでは、理性的な議論・討論は出來ない。徳保さんは、相對主義を標榜する點で私と意見が合はないけれども、ちやんと他人を理解しようとすると云ふ美徳を持つてゐる。けれども、それは徳保さんが「感情論に逃込まない」と云ふ自制心を持つて自重してゐるから――しかしそれは、徳保さん個人に特有の美徳でこそあれ、相對主義の理論それ自體とは何の關係もない。
私の理解では、相対主義が西欧で(哲学などに関心のない庶民層まで)勢力を広げた背景には、西欧諸国が世界に進出した際、現地の文化を野蛮と断じたことへの懐疑があります。とすると、そもそも(庶民的な)相対主義とは、自分の信ずる正義の普遍性への懐疑だったわけです。
つまり、他人の主張する正義を突っぱねて、自分の価値観を声高に訴え続けるのは、相対主義者の態度ではない。自分の意見は意見として大切にしておけばいいんだけれども、他人の意見が自分の意見よりダメなものと考える根拠は何もないのだから、まずは話を聞きましょう、ということになるはずです。
少なからぬ相対主義者は、とりあえず、「事実と判断は分離できる」とみなしています。ゆえに、事実に反する意見は、価値観云々といわなくても、否定できるわけです。仕事や生活に関する議論の多くは、前提事実の争いなので、相対主義者でも、社会生活に支障をきたさずに済みます。
ただし議論の枠組みの選択は、それ自体が価値観を体現するものなので、絶対主義者同士だと、事実を争うだけの議論であっても、枠組みの選択という段階で合意が得られないことが多い。その点、相対主義者の方が、「ではとりあえずあなたの枠組みに基づいて話をしましょう」となりやすいのではないかな。
ともかく、相対主義というのは、たしかに自分の素朴な価値観を完全否定されないための防御として機能するけれども、逆に自分も他人の意見を否定できなくなりますから。「誤読だ!」と思っても「本当かな? 相手の言い分もよく聞いてみよう」ということになるはずではないか、と。
本当の本当に誤読ということもあるわけですが、枠組みの問題だったりすることが少なくないです。文章そのものは「事実」だけど、それを読み解く視座の設定には価値観が関わりますから。筆者の意図と全く異なる構図で文章を再解釈することは、可能なんですよね。
永井均さんが初心者向けに書いた本のいいところは、庶民の日常生活に現れる哲学を、素朴に記述していること。上で紹介している他に「<子ども>のための哲学」という本もあるのだけれど、これは永井さんが大学の教養科目で教科書に指定していたもので、難しくて何をいっているのか私にはよくわからない。
ただ、memo:相対主義(2009-11-05)で紹介しているような、様々な解釈のある言葉を誤解を恐れずザックリ紹介する手法には、批判もあるそうです。でも、それは読者の方で気をつければいいことだと私は考えています。自分の水準で言葉を再定義して、素朴な議論をしている自覚があればいいのでは、と。