三宅さんからはたびたびご意見をいただいています。「なるほど」と思うところあり、よくわからないところあり。今、というタイミングにとくに意味はないのですが、ここで主に疑問・反論についてまとめたいと思います。
子どもの悪事が明らかになったときの対処(2009-08-25)について。
自分の事を、こういうホームドラマのように仕立てて気持ち悪くないのだろうか。
言葉のイメージにずれはあるかもしれませんが、私も「気持ち悪い」と思う。思うけれども、私は記事に書いたような意見を、より多くの人に伝えたかったので、その意味で「目的に合致した表現だ」とも考えています。いろいろ批判はあっても定石となっている方法は手堅い。
三宅さんのように、かえって「引く」方がいることはよくわかります。私自身、自伝を美談で彩ってしまう人を胡散臭く感じますし。それでも、下手な私小説を書けばこそ、あちこちからリンクもされて、そこに付随する意見を多少なりとも広めることができたのです。だから、あれはあれでいい。
「で、そんなことをして何の意味があるのか?」と自問するに、公益はとくにないかもしれない。虚栄心が多少、満たされて気分がよくなった、というくらいの話のような気はします。
物的証拠うんぬんは、躾では あまり意味がありません。 善悪を教える場合、証拠の有無に拘らず、悪い事は悪い。 善事を為そうとするのは信仰に拠るけれども さて措いて、うちの親父は駄菓子屋に、きつく叱って措きましたから、と言って頭を下げたらしい。 叱るも何も、殴られて、ほったらかしにされて終わり。 謝りに行けとも言われない。 親父が謝罪して「事件」は済んだ。 しかし、私はあの痛さを忘れない。
やってもいないことで殴るのも、殴られるのも、嫌でしょう。三宅さんの事例の場合、たまたま駄菓子屋の主人が「勘違いで濡れ衣を着せる失敗」をしていなかったから結果オーライだったのです。無実の罪で痛い目にあっても躾になどならず、理不尽な親を恨むだけでしょう。
また、これはホームドラマの前項に書いていることですが、「善悪を教えるのは、ふだんの会話によるべきで、特定の事件にかこつけて指導しようとするのは安直」というのが私の考えです。価値観を理屈で説明できるわけがない。悪いものは悪い、その判断基準を言行一致で示していく。それ以外にないと思う。
私の書いたホームドラマでも、「なぜ盗んではいけないのか」なんて誰も説明していない。そんなもの、説明なんかできないと思う。
長くなったので、他のご意見については記事を分けます。