趣味Web 小説 2010-02-10

三宅龍太郎さんへのレスポンス 2

1.

コツは「現実的な期待値」を設定すること(2010-01-16)について。この記事で三宅さんが何を指摘されているのか、よくわからない。「学生と社会人はやっぱり違うよ」ということでしょうか。

私は日常業務を快適に回す職場作りの話をしたつもりです。私の提案した仕事改善の方法を実践すると、三宅さんが例示したような勇気ある社会人を育てる障害となるのでしょうか? そういうことではなくて、「それだけじゃダメだよ」というお話なら、納得できます。それはその通りだと思う。

ただ、私には「清冽な精神を育てる方法」の知見がありません。もしそれが具体的に記述できるようなものならば、ぜひ教えてほしいです。

2.

memo:上念司『デフレと円高の何が「悪」か』の感想(2010-01-21)について。上念さんの著書にあったジャンケンでも、10億回ぐらいやれば、たぶん10連勝できる時もあるでしょう。という記述を私が明らかにマズイと評した件について、三宅さんから数学的に 60,000 分の 1 の確率であったとしても、実際には稀に 10 億回に 1 回だったり、逆に稀に 10 回に 1 回だったりする。それが確率です。との指摘をいただきました。

これは私の言葉足らずでした。上念さんは著書で対立意見を非科学的だと批判しており、きわめて低い確率でしか生じない問題をことさらに言い立てるのはナンセンスだ、といっているのです。「ジャンケンで10連勝」は「きわめて低い確率で起きること」の比喩として登場します。それを実際には「6万分の1」の確率なのに感覚的な物言いで「10億分の1」と書いてしまうのは、自らの足元を崩す行為だと私は感じたのです。「科学的な検討によらず、事実とかけ離れたイメージの世界の確率を前提に議論をする」という点で、上念さんは論敵と同じではないか、と。

上念さんが反証(データ)を要求して居るのに対し、穏当な表現の方が、真に多くの人を説得できる という「感想」を述べて居る。 異論が無いのだったら、明らかに拙い、と言ったのは何だったのですか。(中略)確かに「似た事例」で同じ結果になる保証は無いけれども、原理原則は何か、なら言える。 それを研究するのが学問です。

大規模な金融緩和によりデフレを脱したとき、名目金利が急騰するかしないか、それは学者の間で議論(の趨勢)が決していない問題です。学者さんや慎重なエコノミストは、「急騰しなかった事例があります」とはいっても、その再現性には留保をつけています。金利が急騰する理論的可能性は多々指摘されており、帰納的に証明されているといえるほど実証研究は進んでいません。

なお、私の疑問に対する上念さんの回答は、「私は一般向けの啓蒙活動に注力している。そして一般向けには、学者的な慎重さよりも、テレビコメンテーター的な明快さの方が訴求力が高いと考えている」というものでした。金利は急騰しない可能性が高い、という合意はあるので、

3.

記事を書くのもネタ帳を整理するのもイライラの力(2010-01-29)について。

マーク附けは情報の本質たり得ないゆえに適当で良い。 徳保さんも「適当で良い」と言って居た記憶があるけれど、その根拠が分かり難かった。 というより、世間が「正しい HTML 」と騒いで居るから、それに「反抗」して見せて居た。 ばんばんアクセスが稼げる。 そんな感じがするけれど、何うですか。

広告収入があるわけでもなく、叩かれても楽しくないですし、アクセスを増やすこと自体を目指してはいません。それに、よく勘違いされるのだけれども、多数意見に反することを書いても、ふつうは注目されない。天邪鬼な人なんて、割合は少なくとも人数としてはたくさんいるからだと思います。

しかしそれはそれとして、私が「自分の視界の内側でワンサイドゲームを展開している意見」に横槍を入れるのは、たしかにある程度は意図的なものです。「少数意見の側にも言い分があることを、誰かが言葉にすべきだ」という使命感のようなものが、私にはあります。

ただ、私の見ている世界は偏っているので、その「場」における少数意見=世間では多数派に属する意見、ということが少なくない。そのあたりが、「徳保さんのスタンスがよくわからない」といわれる原因のひとつとなっています。

私は意識して右翼活動家※である事を公言して居る。

私は、みんなそれぞれに「偉い」ので、お互いに啓蒙活動をする(しようとする)のは自然というか、おかしなことではないと思っています。

いま私は「偉い」とカッコつきで書きましたけれども、私自身は、自分の意見を正しいと思って他人を説得しようとするのは万人に許されたことだと考えているから、それをいちいち「偉い」とか何とかいう方が違和感があります。

でも、他人の考えを変えようとするのは尊大だ、偉そうにするな、みたいな反応を繰り返し受けて疲れたので、「言語感覚の違い」と割り切ることに。近年では、「あんたは人様に説教するほど偉いのか」という反応には、「そうです。偉いのです。私に意見しているあなたと同程度には、ですね」と返すことにしています。

議論の入口で揉めても利益がないので、「思い上がり」「偉ぶっている」「尊大だ」といった言葉は受け入れて、まず話を先へ進めたい、ということです。

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