少なくとも80年代までは何かを買うために何かを諦めるということは無かったはずです。新しいものは高いから買えないだけで、いずれ安くなれば買えるしそう安くならなくとも給料の上昇が追いつくはず、でした。(中略)経済は20年前の1.5倍に成長しているはずなのに、なんでボクらはクルマ一台を買うのにためらわなくちゃいけないんだろう。誰かこの質問に答えてくれないだろうか。
先進各国に差をつけられている名目GDP成長率ではなく実質GDPではそれなりに成長していると思うんだが、なのに豊かになった実感が湧かないというのも大きな謎の一つではある。実質で考えるとはどういうことかというと、給料が上がらなくても同時に物価も上がっていないのだから理屈では生活水準は不変のはずということ。しかし、実際の経済心理を観察すると明らかに消費に消極的になり、将来に備えて生活防衛型の生活スタイルにシフトしている人が激増しているように感じる。これはどういうことだろうと改めて思う。
生産性が2倍になって労働時間が半分にならない3つの理由(2010-02-19)にも書いたことだけれども、生産性の上昇の大部分は「量」ではなく「質」の上昇で、しかもその「進歩」は不可逆である、ということなんじゃないかな。
「量」と「質」はちょっとうまく定義できないので、ニュアンスを好意的に汲み取っていただきたい。(……と、ここで「アホか。それじゃ意味ないだろ。こんな駄文、読む価値なし!」と判断された方は、それで結構)
いまインドから車を輸入して、そのまま走らせることが可能なら、タタの激安新車は日本でも大ヒットするのかもしれない(注:当然そのとき車検制度は大幅に簡略化・低コスト化されているはずである)。でも、それは「ありえない」。その安全性の低さなどがすぐに問題視され、こんなのはダメだ、となるだろう。
自動車の安全性向上は日本の消費者が望んだことだ。何度、仮定の話として安全基準を緩和した状態をスタートラインに設定しても、シミュレーションを続けていくと、必ず復活してくる。もっと安全基準を厳しくせよ、人命を軽んじるな、となる。
生活の質ということについて。80年代にはクーラーが普及していなかった。学校の教室にクーラーがきたのは90年代の話。中小企業の(基本的に来客のない)オフィスにクーラーがきっちり普及したのも90年代のことでしょう。21世紀になって、やっと町工場の作業現場などにもクーラーが入るようになってきた。
私の勤務先は大企業ですが、本社併設の屋内現場にクーラーが入ったのは、私が入社した後のこと。冬の暖房はないと死ぬから用意されていたけれど、夏は「耐えろ!」といわれた。夏の暑い日に汗水たらして仕事して、みんなで冷たい麦茶を飲んで休憩したのは、いい思い出。今の新入社員はあの「ああ、夏だなあ!」という体験ができなくてかわいそう……なんて話をしたら、「営業、いきたい?」って睨まれた。すみません。
まあ、金属加工なんて材料の温度管理をしっかりしなきゃ精度が出ないんだし、クーラーのおかげでパラメータ調整の手間が減ってよかった。というか、所詮、もう思い出になっちゃったから「楽しかったな」なんで、「明日から気温32度の現場で3ヶ月働け!」と命じられたら、「ウッ」となる。
パソコンの性能向上について。パソコン市場では、たびたび「売れ線価格」の再調整が行われてきた。しかし「価格性能比の向上が止まった」ことはない。市場は性能に満足していない。
登場した頃のネットブックではリッチな年賀状の作成は厳しかったが、これには消費者の不満が噴出した。結果、昨年発売のネットブックは、どれも基本的に年賀状作成に十分な性能を有していた。「量」の革新は「質」の革新と速度が違う。在庫処分ではなく新規生産で赤字にならない価格を設定すると、年賀状作成に対応するかしないかで価格差は1万円程度にしかならない。これは最新機種の在庫処分価格より高い。だからネットブックの性能は、下がらない。
ネットブックが登場し、ヒットしたことをもって、「パソコンの性能競走は終わった」と評するのは間違いだった。技術の進展によってWindowsXPが快適に動作するネットブックが実現されたから市場が立ち上がったのであって、安くて小さいだけではダメだったのだ。
一般家庭においてパソコンは「家族で共用するもの」だった。そういう価格の商品だった。ネットブックは「真に個人用のパソコン」であり、その性能の向上は、これから本格化するのである。
昨年後半には「ネットブックの大画面化」が進んだ。「えっ!?」という声が聞こえてきそうだが、じつはネットブックはあまりモバイルされていない。「自分の部屋」に置かれることが多いのだという。リビングから個室へ。そもそも大画面ノートは「使うときだけテーブルの上に出して使う」という形で普及しのだった。
いまネットブックの小ささに利便を感じておらず、「安いパソコンは画面が小さいのしかないのか、残念だ」と思っているユーザーがたくさんいる。ようは人々の収入が増えない以上、「個人専用パソコン」の価格には上限がある。その枠内で可能な性能の向上は、全て実現されていく。大画面化も、そのひとつ。
話を整理すると。まず、実質GDPの成長は「質」の向上が大半であって、実質GDPが1.5倍になっても、消費できる「量」は1.5倍にならない。20年前に1台180万円で製造販売できた車を、いま120万円で製造販売することはできず、例えば150万円くらいがギリギリのラインだ、ということ。
しかも、その150万円の車は、市場で全く競争力を持たない。なぜなら、現代の衝突安全性の基準を満たしておらず、燃費が悪く、乗り心地もよくない。減税も補助金も、当然、ない。これらの欠点は、30万円の価格差では正当化できない。とくに安全基準の問題は致命的だ。「安全」の向上は不可逆な「質」の変化である。
かくて、新規に製造された自動車の価格は下がらない。「20年前の性能でいいから、安くしろ」というのは無理な話で、(画期的な技術革新がない限り)そういう商品が日本市場に出てくることはない。
携帯電話、パソコン、インターネット、クーラーの一般家庭への普及は、この20年の間に起きた。一人暮らしの若者にまで、これらの商品やサービスは浸透した。個々の商品の「質」が向上し続け、自動車のように全く価格が下がらない商品が多い中、よくこれだけ新しい消費の対象を増やしてこれたものだと思う。
私たち(あえてこう書く)は、「1.5倍の経済成長」というとき、ついつい「量」が1.5倍になると考えてしまう。「質」の向上、とくに不可逆に生じる「質」の向上は、意識されにくい。
不可逆の「質」の向上というのは、以前より改善されているのに消費者が「これくらい当然」と思っている状態、と考えてほしい。消費者って、「願望」が実現されたら喜ぶけど、「不満」が解消されてもすまし顔。
90年代以降の閉塞感、それは、新しいもの、新しい生活を得るためにそれまで当たり前だったものを諦めなければならない、あるいはどちらを取るかのトレードオフを迫られているためではないか、と思うのです。
60年代の本を読むと、高度成長期にも「生活が苦しくなっている」という人が異様に多かったことに気付きます。どうやら「平均的な人は、年率2%くらいずつ生活水準が向上して、ようやく主観的には生活水準が横ばいと感じられる」らしい。「これくらい当然」の水準が、年率2%で上昇していくといってもいい。
ゆえに、実質2%程度の成長では、「何かを捨てないと新しいものを選択できない」となってしまう。本当は「質」の向上が続いているのに、「それくらい当然」だからカウントしてくれないんですね。実際には「失われた20年」の平均成長率は2%未満なので、「質」を我慢して「量」まで減った、と実感される。
まあ、こういう人の心のバイアスはどうにもならないと思うので、処方箋としては「実質2%超の成長を目指す」しかないんじゃないですか。もっとも、個人へのアドバイスとしては、自分の意識を変える方を勧めますけれども。