趣味Web 小説 2010-04-13

どうせならパクられて喜ぶ人の記事をパクってほしい

1.

fromdusktildawnさんが、記事を盗用されたといって怒っている。fromdusktildawnさんがtumblrへの転載に文句をつけているのを見たことはないから、原典をきちんと紹介していればトラブルにはならなかったのだろうか。

keitaro2272さんは過去にも何度か、よその記事を盗用していると指摘されてきた。一例を示す。

ここではkeitaro2272さんがコメント欄に登場し、「オリジナルとコピーの境界線」という記事を自分のポリシーをまとめたものとして紹介している。青木さんの返答は、要約すると「keitaro2272さんの行為は剽窃だ。パクられた側に何らメリットがなく、許容できない」というものだった。

fromdusktildawnさんや青木さんの感覚は、現代の日本では常識的なものだと思う。keitaro2272さんの行為が問題視されることに不思議はない。

ただ、「私の記事なら、転載も改変も盗用も商業利用も全て大歓迎なのに……」と寂しく思う。私がfromdusktildawnさんや青木さんと同等以上の書き手で、もっと魅力的な記事を大量に書くことができていたなら、こんなトラブルは起きなかったはずだ。自分の無能が恨めしい。

2.

keitaro2272さんの特徴は、参照した記事を大幅にリライトすることだ。元の記事を自分のブログのフォーマットに変換し、わかりにくいと思った部分は大胆に書き換えたり、バッサリ削ぎ落としたりする。

法の認める「引用」や、fromdusktildawnさんや青木さんが黙認してきた「転載」といった手法にkeitaro2272さんが飽き足らなかったことは、理解できる。青木さんの事例はピンとこないけれども、fromdusktildawnさんの事例では、keitaro2272さんが改訂したバージョンの方が、私には読みやすい。

原典へのリンクがあれば、fromdusktildawnさんや青木さんは、こうした記事の書き換えを認めただろうか。fromdusktildawnさんはどうかわからないが、青木さんは「引用」という形式を守ることを求めていたので、おそらく認めなかったろう。

いまのウェブには、編集者が欠けている。カウンター文化が後退し、自分の文章が読まれる場所はRSSリーダーでもtumblrでもいいよ、という感覚が広まってはきたが、一見してパクリだとわかるような「書き換え」まで許容されるようになっただろうか。まだ、そこまでは進んでいないだろう。

タイトルを変え、本文に手を入れることで、原典のままではリーチし得なかった層に届くようになる、というケースは少なくないと思う。それを「もったいない」と思う感覚は、私の中にもある。が、記事のリライトはハードルが高い。まず認められない。だからゲリラ的にやっていくんだ……しかし当然、それでは叩き潰されることになる。

3.

いま、原本を紹介しないスタイルがまかり通っているのが、美人や風景の写真など。画像掲示板や、そのまとめサイトでは、誰がその写真を撮影したか、被写体は誰か、といったことは、ほとんど問題とされない。そして画像をスレに貼った人が賞賛されている。

写真家と、こうした掲示板やまとめサイトとの間で、世間の注目を集めるようなトラブルが発生した事例を、私は知らない。じつはたくさんあるのかもしれないが、世間の「別にいいじゃん」という流れを揺るがす力を持っていないことはたしかだ。

しかしどうして多くの人々は、ブログ記事の「剽窃」には怒るのに、このような状況には不安を感じないのだろうか。

私なりに考えてみると、ポイントは「スレに画像を貼った人=撮影者ではないという暗黙の了解」があることだろう。勝手に画像を貼った人への賞賛の中に「その画像を作成したことへの賞賛」は含んでいない、だから「名誉の横取り」はない。2chまとめ系ブログが、元スレにリンクしていなくとも「剽窃」とはいわれないのも同じ理由だ。

ブログ記事の「剽窃」では、その暗黙の了解がない。それゆえ、コンテンツから得られる利益の横取り=著作財産権の侵害に加えて、著作者人格権まで侵害されている、と感じられる。多くの人は、名誉の問題に敏感らしい。

写真と文章の違いは、あまり重要ではない。商業ニュースサイトは出典をきちんと書かずにtwitterの発言やブログの記事を再構成していることがあるが、「ネットで拾ったネタです」という文脈で書いているから、「名誉の横取り」という印象が薄い。それで社会にギリギリ許されているのだと思う。

4.

keitaro2272さんは、過去の多くの同種の事例とは異なり、剽窃を指摘されてもブログを畳んでこなかった。私はここにひとつの希望を見る。

ちょっとすぐにリストを作ることはできないのだけれど、私と同様に著作者名の詐称もOKとしているブロガーは10人以上いる。私の記事だけでも2000を超えており、全体で10000本くらいの事実上パブリックドメインの記事が既に存在するのだ。keitaro2272さんとしては非常に厳しい制約になるが、その自由に使える記事だけをネタ元として、半年くらい更新を頑張ってみてはもらえないか。

もし、keitaro2272さんのリライトによって、全く注目されなかった記事が世間で大受けするといった事例が相次ぐならば、「盗用でもいいからネタ元に加えてほしい」というブロガーが少しずつ増えていくのではないかと思う。

いわばゴーストライターの逆をいくわけだ。個人の名誉を報酬として差し出す代わりに、アイデアの伝播を依頼する、という関係になる。面白いアイデアを持っているが文章力が低く無名のブロガーは、固定読者が多く文章力の高いkeitaro2272さんに名誉を譲り、自分のブログでは不可能だった、大勢に自分の意見を伝えることを実現するわけだ。

腰を据えてやっていく覚悟がkeitaro2272さんにあるなら、こういうことも可能だと思う。私はいい加減に、記事をパクったのパクられたのという問題をこの世からなくしたい。誰もが怒る行為ならともかく、パクられてもOKな人が世の中には何人もいるのだ。両者をうまくつなぐ仕組みの不在こそが問題なのである。

補足:

ほとんどの読者はリンク先なんか読まない。

5.

別解としては、「原典へのリンクさえあれば、文章のリライトを歓迎する」という文化が広まっていけば、状況は一歩進む。リンクを条件に転載を許容する(いちいち怒る方が神経質に見えるという)空気を作ったtumblrtogetterのように、だ。

海外記事の翻訳、書籍の紹介、講演会の参加報告などでは、大胆なリライトがまかり通っている。とくに書籍や講演会に関しては、著者や講演者が「そんなことは書いてない」「そんなことはいってない」と困惑するトラブルが何度も起きている。ところが、有料コンテンツのエッセンスを無料で享受できる利便性がウケているのかどうか、書籍の内容紹介や講演会の参加報告自体を著作権の観点から問題視する意見は少数派だ。

もちろん、個別のトラブルについては、著者や講演者に味方する人が多い。だが、「その手のコンテンツ」をことさらに問題視はせず、大きなトラブルが起きない限りは「こんなのは犯罪だ。許せない」とはいわない。むしろ権利者がその手のコンテンツの公開をやめさせると、反発する側が多数派になったりするくらいだ。

言語が違えば勝手にリライトしてもOKというところまで「多数派が容認するライン」は迫っている。「日本語→日本語」のリライトも、「リンクがあればOK」になる未来は、全く考えられないという話でもないだろう。

この記事にはいろいろな読み方がありうるが、私は「リンクさえあれば、商業ニュースサイトが行っている現状程度の情報の再構成は、不満は大きいものの、許容できなくもない」と解釈した。あるいは、既にリンクなしの「日本語→日本語」リライトは行われている、とも読める。

追記:

とりあえず私にできることとして、個別記事の末尾に「転載・改変・盗用・商用利用、いずれもご自由にどうぞ。」と入れた。

逆リンク!

私の「著作権を放棄しようぜ」という提案は、そもそも他人の権利に無頓着なくせに自分の権利にばっかり敏感なネット世論への怒りに端を発している。まず自分が権利を放棄して、同志を増やし、仲間内で著作物の自由な利用を実現するのがスジだろう、と。私の主張のベースにあるのは、同意・了解なしに他人の権利を侵害するのはおかしい、という考えなのだ。

相手の同意なしに他人の著作物を転載する身勝手な文化を作ったtumblrやtogetterにも、私は疑問を表明してきた。青木さんはそんな私の記事を評してアナーキズムだという。とんだ誤解で不愉快な話だが、私の文章がわかりにくいのだろう、きっと。だから、ひとつコメントを付けた。

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