趣味Web 小説 2010-04-21

同時に書ける文字は1つだけ

野嵜さんがSKKを好きにならなきゃいけない理由は全くない。私だってSKKにはイライラさせられた記憶しかない。けれども、それはそれとして、野嵜さんの「SKK批判」と「連文節変換を礼賛する理由」は、私には納得できないわけです。

徳保さんは、文節は全く認識出來ない人なのだと云ふ。それならそれで仕方がない。本當かどうかは知らないし、どうもとぼけてゐるのでないかと思ふのだが、もし本當にさうなら仕方がない。けれども、skkは、野嵜さんってを一つの文節と看做す私の心理に反し、「野嵜」と「さんって」を分離して認識する事を要求する。私はキーボードを叩きながら文章を考える方だけれどもを「私は」「キーボードを」「叩きながら」「文章を」「考える」「方だけれども」ではなく「私」「は」「キーボード」「を」「叩」「きながら」「文章」「を」「考」「える」「方」「だけれども」と分割して考へよと要求する。これはまだ増しな方であつて、「きながら」が解らない程度で濟む。しかし、だから野嵜さんのいってることは、何だかよくわからない。になると、「だから」「野嵜」「さんのいってることは、」「何」「だかよくわからない」になつてしまふ。「さんのいってることは」つて何。「だかよくわからない」つて何。氣狂ひになりさうだ。ところが徳保さんは、「さんのいってることは」と考へる。

??? 私の主張は全然違いますよ。だって、こう書いてるじゃないですか。

私は「子ども」と書くのだけれども、これは小学生の頃からの慣れで、もう私の脳内では「子ども」という3文字が「子ども」なんですよ。「こども」を「子ども」に変換してるわけじゃない。作業としてはそういう手順なんだけど、それは仕方なくそうしているだけなんですね。本当は「子」「ど」「も」と入力したい。

つまりですね、ペンで紙に字を書くとき、1文字ずつしか書けないですよね。私はもちろん「子ども」と書こうとしているのですよ。だけど、それを書くときには、1文字ずつしか書けない。キーボードで入力するときも同じです。同時に3文字「子ども」と書くことは不可能。これは了解していただけると思う。

そして手書きの場合は、1文字ずつ、漢字で書くか平仮名で書くか、決めているわけです。これも了解していただけることと思う。私は、SKKというのは、「1文字ずつ漢字/平仮名を決定していく(=手書きにきわめて近い)文字入力ソフトウェア」だと認識しているのですよ。

野嵜さんの例に倣って「だから野嵜さんのいってることは、何だかよくわからない。」という文章を「書く」ケースを考えてみますと、平仮名の「だ」、平仮名の「か」、平仮名の「ら」、漢字の「野」、漢字の「嵜」、平仮名の「さ」、平仮名の「ん」、平仮名の「の」、……以下略、となります。

私にとって「書く」というのは、そういうことです。「文章を考える」ことと、それを「書く」ことは全く違う。「書きながら考える」といっても、文章は「だから野嵜さんのいってることは」というフレーズ単位で頭の中に浮かびますが、書くときは1文字ずつ書いていくしかない。そうでしょう?

野嵜さんとの対立点は、SKKの仕組みの解釈です。私は、SKKは1文字ずつ漢字か平仮名かを決める仕組みの入力ソフトなのであって、「だ+か+ら+野+嵜+さ+ん+の(以下略)」という仕組みですよね、といっているのです。一方、野嵜さんは「だから+野嵜+さんの(以下略)」という入力をさせる仕組みだからSKKはダメだ、と批判されています。

たしかに、入力モードの切替が実際に行われるのは、野嵜さんが区切りとした部分だけかもしれない。けれども、「入力モードの切替をする/しない」という判断は1文字毎に行われます。私はその「1文字ずつ判断を行う」ことこそ真に重要なのであって、「判断の結果、モードの切替が行われた箇所」に着目するのはおかしい、といいたいのです。

補記:カナ漢字変換、連文節変換とは何か

これまでの考察を踏まえて、カナ漢字変換、そして連文節変換について、考えてみたい。

カナ漢字変換とは、「呪文を入力すると、本来書きたかった文字に変化する」仕組みではないだろうか。「げん」は「現」、「じつ」は「実」と書くのと等価。

ただ、この呪文は文脈依存です。呪文が「げん」だけだと、狙い通りの魔法が発動する確率が低く、変換キーを何度も叩くことになります。そこで「げん」「じつ」「に」と呪文を並べてから魔法を使う=変換キーを叩くと、相互作用が働いて、狙い通り「現」「実」「に」と変化します。

このように考えてみると、連文節変換というのも、じつは1文字ずつ入力する仕組みの集合体なんですね。手書きならいきなり「現」「実」と入力できるけれども、キーボードでそれは無理。だから呪文を介さざるを得ない。連文節変換は、その呪文の成功率を上げる仕組みに過ぎない。

つまり、哲学的に状況を分析すると、「げんじつ」が「現実」に変換されているのではない。「現」「実」という1文字ずつの入力を高確率で成功させるために、「げん」「じつ」「に」まで入力してから、変換してもらう。それが連文節変換。

補記:SKKと連文節変換の違いとは

SKKにも熟語の変換機能はあったわけだし、SKKと連文節変換の差って、時間差調節が可能な範囲の違いでしかないのではないか。

そう考えると、連文節変換のソフトでも単漢字変換は可能なわけで、「SKKの優位点って何?」という疑問はありますね。10数年前には、一応、あったんですよ、優位点が。

昔の連文節変換ソフトだと、「げん」「じつ」という呪文を入力したはずが、「げん」「じ」「つ」と誤解され、しかも「げん」「じ」で相互作用が働いた結果、「源」「氏」「津」なんて変換結果になってしまうことが多かったんです。だからといって連文節変換のソフトで1文字ずつ変換しようとすると、妙に手間がかかって面倒で仕方ない。

SKKは、単漢字変換+少々というスタイルに特化して、サクサク単漢字変換を行っていけるよう工夫を凝らしていました。だから私がSKKに触れた当時は、バカな連文節変換ソフトよりSKKの方が作業効率がよさそうだな、という感触がありました。漢字の読みの間違いなどを許容してくれていたらなあ……。惜しい。

でも結局のところ、原理的に「既に書かれた文字列」しか参照できないSKKは変換精度の壁に行き当たってしまう。「前後の文字列」を参照できる連文節変換が天下を取るのは、SKKがどう頑張ったところで必然だったと思う。

追記:

徳保さんは私の主張に反對だ。そして徳保さんは、自分の書き方を反省して、或種の理論を發見した。それは良いけれども、私の主張と徳保さんの主張が對立するからと言つて、その原因としての理論を、徳保さんは自分主體に勝手に定めてしまつた。自分の主張と對立する野嵜の主張は、自分の理論と對立する理論に基いてゐるに違ひない! 徳保さんは、「漢字仮名交じり」と「音韻」の對立構造を設定して、「音韻」を私の立場として設定し、私をやつつけようとした。ところが、これは飛んでもない勘違ひだ。徳保さんは、私の文章を讀んだが、私の原理を知らうとしないで、頭で考へてしまつてゐる。これは私を非難する人が必ずやる間違ひだ。

左翼の人が、野嵜が氣に入らない事を言つてゐる、野嵜は敵だ、左翼の敵だから右翼に違ひない、野嵜はなんとか主義だ! ――とか、そんな身勝手な論理で私の主張を極附ける事がある。その私とは何の關係もないなんとか主義の缺陷を理由に「野嵜は馬鹿である」と云ふ結論を引出して、嘲るのだけれども、私にしてみれば全然關係のない何處かの理論の尻拭ひを要求され、擧句、何の罪も無い筈なのに何らかの罰を受けてる状態に追込まれるわけで、迷惑千萬な話だ。

えっと、野嵜さんの書き方から推察するに、野嵜さんは「文字で考える」「頭の中にある文章は漢字かな混じり文である」という点で私と違いはない……ということなのかな。

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