SKKは日本語入力用ソフトウェアのひとつ。漢字入力と平仮名入力が分離しており、シフトキーでモードを切り替えるのが特徴です。連文節変換に慣れてしまった人には、とても面倒に思えるかもしれない。けれども、ペンで紙に文章を書くときには、誰でもやっていることなんです。まず平仮名で文章を書いて、それを清書する段階で漢字かな混じり文に書き直す、なんて人はいないでしょ?
高校時代に文藝部室のワープロに躓いたのは、連文節変換が原因でした。何これ? と思ったんです。こんな不自然な日本語入力ソフトしか世の中には存在しないのか? だから、大学の情報処理の授業でUNIXを触り、SKKと出合ったときには感動しました。ところが、5月連休に自分のワープロを買って、たくさん文章を書いていくと、連文節変換の便利さに魅了されました。
最近はどうだか知らないけど、10数年前のSKKだと、送り仮名の知識が不正確な人(=私)は「なんで変換候補が出てこないんだ!」となることが多かったんです。あとは熟語の読み方を勘違いしていると、これもまた手詰まりに。「不正確な日本語でもいいから、とにかくこっちの脳内にある文字を出力させろよバカヤロー(怒)」と苛立つことが多かったんですね。
大学1年の頃は、情報処理室へ行くときには国語辞典を必ず持参してました。人生で一番、辞書を引いた時期かもしれない。で、辞書を引いたら納得できたかというと、さにあらず。「おい、辞書ではこの送り仮名も許容じゃん。融通きかせろよ、バカSKKがーっ!」かえって怒りが増幅されることもしばしば。
今にして思えば、前後の文脈を判断して変換候補の順番を調整するとか、よくある入力ミスには対応するとか、それって別に「SKKだからできない」ってことじゃないんじゃない? という感じはします。SKKが商売として成功せず、開発リソースが足りなかったというだけの話なのかもしれない。
ともかく私の場合、自分の漢字の知識があやふやなので、SKKの几帳面さにはついていけなかったんですね。その点、連文節変換は、使用者のルーズさに、頑張ってついてきてくれました。だから連文節変換を好きになりました。
だーかーらー。單語を變換するのでは使へないんだよ。だつて俺は文章全體をまとめて思ひ浮べるんだから。少くとも、「今日は」は一續きで考へる。「今日」「は」と分けては絶對に考へない。日本語なのだから、詞と辭とは膠着してゐるのが當り前だ。それを分斷するのだからSKKは駄目だ。
そもそも文節を意識せず、單語を變換出來ればそれでいいなんて發想で日本語の入力ソフトを作つてゐるのが間違だ。
頭の中でこの文字列は漢字! この文字列はかな! と明示的に指定して考へますか。そんな事は絶對にあり得ません。一聯の思想が頭の中に浮ぶのであつて、それを兔に角書附ける・打込む――それが最優先であつて、形のない思想を形のある文章として定着させる事、それが出來なければ入力プログラムとして何の價値もない。
この意見が、よくわからない。野嵜さんってペンで紙に文章を書くとき、「なんで1文字ごとに漢字・平仮名・片仮名といった最終出力を確定しなけりゃならないんだ?」とかイライラしてたりするの?
私はキーボードを叩きながら文章を考える方だけれども、それでも、どの文字を漢字にしようかなんて、キーを打つときにはもう決まってるよ。ペンで字を書くのと一緒。字を書き始めたときにはもう、決まってる。というか、私が「日本語で考える」とき、私の頭の中では漢字が使われています。同音異義語を漢字で区別しているんですよ。いま、頭の中で思考を追いかけてみたけれど、たしかにそう。
意外と、その言葉が指す具体的な事物を思い浮かべていない。……ん? あーっ、いま気付いてビックリした。そうか、もやもやと言葉にならないグルグルした思考をしてるときはイメージで考えてるけど、それを言葉で腑分けして検討し始めると、例えば「野嵜さん」なら「野嵜さん」という記号で象徴的に扱ってるんだな。もう人間の姿ではイメージしていない。へー、面白いな。
まあ他の人はどうだか知らないけど。私の場合は、思考言語が既に漢字かな混じり文なんですね。だから野嵜さんのいってることは、何だかよくわからない。私も後から仮名漢字変換を修正することはあるけれど、それは一種の思考の訂正。最初に漢字と平仮名を区別しない「ことば」で考えてるわけじゃない。
多分、だけど、漢字は弱者排斥という見地から平仮名だけで書かれた文章が「全然、頭に入ってこない……」という人は、私のお仲間なのかも。最初から漢字で考えている人にとって、平仮名で表記された言葉は、「漢字に変換される前の姿」じゃないから、外国語を見るような感覚なんだ。
実際問題、「じっさいもんだい」なんて平仮名で書かれた文章を目にする機会って、ないんだよね。だから「じっさいもんだい」という音、「実際問題」という漢字表記、このふたつが私にとっての「実際問題」なのであって、平仮名で書かれた「じっさいもんだい」という文字列は、私の中では「実際問題」とは別物。
私は「子ども」と書くのだけれども、これは小学生の頃からの慣れで、もう私の脳内では「子ども」という3文字が「子ども」なんですよ。「こども」を「子ども」に変換してるわけじゃない。作業としてはそういう手順なんだけど、それは仕方なくそうしているだけなんですね。本当は「子」「ど」「も」と入力したい。
ただ、私自身も漢字の詳細をきちんと記憶していないことが多い(脳内漢字と社会漢字にはズレがある)。だから、さっきは「仕方なく」と書いたけれども、実際には連文節変換が都合いい。空欄補充問題より選択問題の方が易しいでしょ。正解って、見れば「あっ、これですよ、これ!」となるから。
skkだと、部品としての語を打込んで、それを組立てて、思想を作り上げる。これは不自然極まりない。言語とは、思想を定着させたものか、それとも、部品を組立てたものか――根本的な言語觀の違ひです。
野嵜さんは言葉の本籍を音韻の世界に置いているんだろうな。私なんかはそうじゃなくて、言葉は文字で基礎付けられていて、音はそれに付随する情報なんだよね。
だから例えば、文字にすれば「雰囲気」だ、というのが私の基本的な「雰囲気」認識なわけ。そんな私にとって「ふんいき」は「雰囲気」出力する呪文でしかないので、「ふいんき」と声に出しつつ手は「ふんいき」とキーを叩いて「雰囲気」を出力していたりする。
仕事の打ち合わせなんかでも、略語の読み方の違いで相手が首を傾げたときなどは、手近な紙にその言葉を書いて、相手に見せることがあります。すると「あー」と納得されたり。その後、お互い異なる「読み方」を維持しつつ話を続けちゃう。議事録は文字表現なので、情報共有に支障はない。
このように私は「文字で考える」タイプなんですね。最初から「漢字かな混じり文で考えている」のだから、SKKで文章を書いていくことは、私にとって部品としての語を打込んで、それを組立てて、思想を作り上げる。
ことを意味しないわけです。
アメリカのドラマや映画を見ると、きちんとした文書の提出を求められる仕事をしている人は、まず音声を録音して、それを聞きながら報告書を書いたりするのがふつうらしい。英語には「ひらがな」しかないので、「文字で考える」人は少ない、ということなのかもね。