趣味Web 小説 2010-04-22

1文字3秒が私のペース

以下に示す私のtwitter投稿は、連続して書かれたものです。途中休憩はありません。

@otsune 利用規約は何度も読んでいますが、「ユーザーは、この規約及び関係する地方自治体、州、国の法律・規則並びに国際法律・規則のすべてに従わなければ本サービスを利用できません。」というのだから、日本の著作権法は当然、守られなければなりません。(11:01 AM Apr 18th webから otsune宛)

@otsune (承前)その上で、特別な利用規約によって、法の認める権利の一部を自ら放棄することになるのは、twitterの運営者による発言の再利用に限られる、と読めます。逆にそうでないとしたら、「Twitterの権利」や「著作権に関する規定」は意味不明です。(11:07 AM Apr 18th webから otsune宛)

@otsune (承前)結論として、非公式RTやtogetterなどは利用規約の同意を踏み越えていると思う。APIを使って検索結果を引っ張ってくるようなサービスなら、投稿者がDBから発言を削除すれば消えるけど、転載された記事は消えない。これは一線を超えていると思う。(11:16 AM Apr 18th webから otsune宛)

20分間で、たったの387字しか書いていない。熱心にキーを叩いていたつもりなんだけど、終ってみればこんなもの。文章を考えていて手が止まっている時間というのも少しはあっただろうけど、私の記憶がたしかなら、推敲やら何やらでずーっと手は動いていたはず。

skkによる表現の感覺といつたら、「ワレ・ワレ・ハ・ウ・チュー・ジン・ダ」みたいな。

実際、私が文字を書くスピードは、そんなものです。キーをひとつひとつ叩いていく、という感じかな。手で文字を書いても、スピードに差がない。キーボードの方が手が疲れにくいので持久力に優れるとか、カットアンドペーストができるので推敲が楽だとか、そういった点でパソコンで文章を書く方が最終的には速いのだけれども。

小学生の頃は原稿用紙3枚の作文を清書するのに、たっぷり3時間かかりました。もう文章には手を入れないと決めて、ひたすら文字を書いていくだけで3時間ですからね。文章を考えつつ20分で387字というのは、私にとっては「ずいぶん書くのが速くなったなあ」と成長を実感できる数字ではあります。

觀念的な入力モードの切替が一文字一文字である事は、入力の際の感覺を考察するのに、何の意義も持ちません。入力モードの切替が実際に行われるタイミングだけが重要です。そのタイミングが、日本語の文章に出現するリズム=日本人が日本語で考へる際の思考のリズムと完全にずれてゐる、この事がskkの使ひ辛さの原因だ、と、さう私は指摘してゐるのです。

私にとっては、ひとつひとつの文字を書くというのが、なかなか骨の折れることなんですね。いまちょっとストップウォッチを使って測ってみると、1字書くのに、平仮名で0.2~0.5秒、漢字なら0.5~3秒かかる。平仮名は、手書きでもキーボードでも同じ速さ。漢字は、変換候補の出方次第ですね。

野嵜さんのおっしゃる「リズム」というものを体感できるステージに、私は立っていない。そういうことなのかもしれませんね。逆に野嵜さんも、ためしに1秒2文字のペースで文字を入力してみてください。それが面倒なら、1秒2文字のペースで私の文章を読んでみてほしい。私が「手書きとSKKはとても似てる」という感覚を理解していただけると思う。このスピードなら、1文字1文字について、じっくり考える時間があるのですよ。

私は、それ以上、速く手を動かせない。でも、それでイライラしたことはほとんどないです。とってもゆっくり、文章を考えて、1文字ずつカタカタと文字入力しているんです。頭の回転が鈍いので、この程度の出力速度で、とくに不便を感じないんですよね。

あ、ちなみにこの記事を書くのに1時間かかってます。おおよその内容は構想3分ですが、それを文章にして書くのには1時間かかるんですね。

例えば、このページはここまで2時間余りで書いています。という一節があるので、調べてみると、そこまで2602字。140分で2602字書いたとすると、平均で1文字3.2秒。ちなみにこの記事では、引用部も一部は文字を入れ直しているので、1198字を約1時間で書いた=1文字3秒ですね。

文案を考える時間を含めると、1文字3秒前後というのが、私がブログの記事を書く速さのようです。(途中で行き詰らなかった場合)

補記:

音で考へるとか文字で考へるとか、そんなのはナンセンスです。人は語に基いて考へます。頭の中にあるのは觀念であり、觀念としての語=詞が、文法機能を司る辭によつて接續されて、一聯の思考として作られます。觀念としての思考を外部に客觀的なものとして表現する爲、我々は文字や音韻を利用します。文字を使へば書き言葉となり、音韻を使へば話し言葉となる――が、それは飽くまで表現であり、觀念それ自體・思考それ自體ではない。ただ、表現は思考・觀念を反映したものであります。

表現は思考の反映であって、思考そのものではない、というのはわかる。わかるけど、実態として、私が「考える」と称している作業は、脳内での言葉のやりとりです。言葉にならない部分は、観察も記録もできず、意識的な活動ではない。私が「もやもや」とか「グルグル」とかいってる状態がそれ。

私が「考えている」ときというのは、脳内のAさんとBさんのチャットログを「私」が読んでいる、みたいな感じです。だから私は「文字で考える」タイプなのかな、と。文字でも音韻でもない「語」というのは、私にはイメージがわかない。

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