趣味Web 小説 2010-05-18

少数派の言論の自由と、命について

1.

「お金にならないから」という理由での涙なら理解できますよ。私が「詭弁」だと言っているのは、これまでに数え切れないほどの牛や豚を殺してきた人たちが、今回だけは殺すことを「かわいそう」と言っているのが理解できないだけです。

リンク先に発言が掲載されている人々の中での多数派(以下、多数派と書く)の判断によると、きっこさんによるこの発言は「差別」なのだそうだ。畜産業に従事する人が傷付く言葉なので、きっこさんは反省して謝罪しなければならないらしい。私は、賛成しない。

牛や豚を利用するために「殺す」のは悪いことだ、という考え方がある。それは世間の多数派の意見ではないかもしれないが、思想・信条の自由は認められていいだろう。そして、憲法が擁護する思想・信条の自由とは、単に内面の自由のみを指すものではなく、その表現としての言論の自由をも含むものと私は解する。

表現の自由には制限があり、名誉毀損や侮辱は禁じられている。きっこさんを批判する人は、きっこさんの発言は畜産家を侮辱している、と主張する。

仮に多数派の意見を是とした場合、「少数派には言論の自由がない」ということにならないか。価値・道徳に関する話題において、多数派が正しいと考えている行為を間違っているといってはいけない、と。そうではない、というならば、きっこさんがどのような書き方をすれば、持論を主張しつつ、「侮辱するな」「差別するな」といわれずに済んだのか、正解を示してほしい。どのような言葉遣いをしたとしても、持論を述べることができないならば、「言論の自由は奪われている」といえるだろう。

私は、「言論の自由を徹底的に認めるべきだ」という立場には与しない。例えば、特定の人物・集団に対する殺意の表明は、その影響を鑑みるに、制限するのが妥当と考える。事実に反する言論、あるいは事実であっても公益に資するより私益を害する程度の方が大きい「プライバシーの侵害」に属する言論によって、特定の人物・集団を攻撃することも、制限されるべきだ。

しかし、言われた側が「傷付く」言論は全て禁ずる、という立場は採らない。

自分の中で明快なラインを引くことにはまだ成功していないが、両者の中間に、「ここから先は、言論の自由が制限されても止むを得ない」と考える境界が存在する。

これは多くの人が同意されることだと思う……といいたいところだが、実際には自分が事実に反する主張をしたときには開き直り、他人が同様のことをすると怒り狂う、という人が多いように見える。まあ、それはそれとして。

2.

きっこさんは、獣肉食をしない人だそうだ。食べるために命を奪うことに心理的な抵抗がある生き物は食べない、という規範に従うためだという。魚介類や植物ならば、自分でも殺すことができるので、食べていいのだそうだ。きっこさんがブイヨンなどを使った料理を全く口にしないとは考えにくいが、そうしたことを言い募るのは揚げ足取りのように思う。

ちなみに私は、肉も魚介も野菜も食べている。動物に限らず、魚介類でも、植物でも、自分でその命を絶つときには躊躇する。かつて母の家庭菜園を手伝って「雑草」を抜いているときなども、「何の権利があって、自分はこの草の生命を奪うのだろうか」ということを、よく考えていた。今も、蚊をパシンと叩き殺したりするとき、「人の命だけ特別扱いするのは、人間の都合でしかない……」と思ったりする。

物心ついた頃から、私は、自分の命が、他の多くの命に支えられていることを認識していた。そして、自分にそれほどの価値があるとは、どうしても思えなかった。牧場へ行って柵の中で暮らす牛や豚を見ると、申し訳ない気持ちになった。幼稚園のイベントで芋掘りへ行けば、本来、サツマイモは翌年に新しい芽を出すために根を太らせるのだと教えてくれる。どうして人間がそれを食べてしまってよいのか、私にはわからない。

私がムスッとしているのを見つけた先生が「焼きイモおいしいね!」という。私は板挟みになって悩み、結局、笑顔を作って焼きイモを食べてしまう。自分は、こんな、こんなことを言い訳にして、サツマイモが何ヶ月もかけて太らせてきた命の源を食べてしまうのだ。悲しかった。イチゴ狩りにも行った。イチゴの実には、小さな種がたくさんついている。「この一口で、どれだけの命が未来を奪われるのだろう?」私はいまだに、種の数を調べたことがない。

自分が死んだら親が悲しむとか、そんなことはいくらでも思いつく。だが、それが私の生き続ける最も重要な理由ではないことには、気付いていた。私は、死を恐れ、快楽と怠惰を求め、ただそれだけのために他の命を犠牲にし続けているのだ。

幼い頃、私は夜、布団の中で丸まってシクシク泣いていることが多かった。静かで長い夜は、あさましく生きる自分を見つめる機会を提供してくれた。私が泣いていることで母がひどく胸を痛めていることを知って、私は感情を押し殺して心の中で泣くようにしたが、基本的な世界認識に変わりはない。

今も、高地へ旅してキャベツ畑に出くわせば、まずキャベツに感情移入する。もちろん、キャベツは何も考えていない。だが、花を咲かすことも許されず、刈り取られていく様子を見ると、「お前は何のために生まれてきたのだ……」と泣けてくる。

実家の庭の池の金魚をひたすら遊びのためだけに殺す野良猫、ドングリを溜め込んだまま忘れて腐らせるリス、獲物を木の枝に突き刺したまま忘れ去るモズ……生きるための最小限の殺傷のみが許されるとするならば、罪深いのは人間に限らない。だが、その事実が「自分が生き続けることへの疑問」を軽減することはない。

話が脱線した。

3.

私は、きっこさんの意見に(少なくとも全面的には)賛成していない。しかし、きっこさんの言葉を「差別だ」「侮辱だ」「許せない」と批判する意見には、異を唱えたい。端的には、「謝罪が必要な発言」だとは考えていない。

残酷な殺戮が嫌なら転職すればよいでしょう。生き物の命を奪って現金に換えるという罪深い生き方を選択しているのはご本人でしょう。

この発言を捉えて、多数派は「畜産農家や屠畜業者への差別だ」という。仮にそうだとしよう。では、「家畜の屠畜は不道徳である」と考える人に、言論の自由はないのだろうか。

これが、「屠畜業者の方は入店お断り」とか、そういった差別行為なら、私も賛成しない。しかし言論まで封じてしまってよいのか。大勢が善しとする行為であっても、自分が「いや、それは罪深いことなんだ」と思うなら、そう主張してよいのではないか。屠畜を「残酷な殺戮だ」と思った人が、その思いを言葉にしてはいけないのだろうか。

不愉快な発言に対して「不愉快だ」「ショックを受けた」「悲しい」「怒っている」「心が折れた」などと反応することを、私は否定していない。

じつのところ、「差別だ」「侮辱だ」「許せない」といった人たちも、言葉が上滑りしただけで、とくに深い考えはなかったのかもしれない。あるいは、法律用語としての「差別」や「侮辱」ではなく、もっと広い意味でその語を用いただけ、かもしれない。そういうことならば、私の心配は半ば杞憂だ。

それでも、「差別」や「侮辱」は、人々が法律を作って少数派の自由を制限することにした事柄である。「あなたの発言は差別にあたる」という認識を素直に受け取るならば、「あなたがそのような主張をする自由は、社会によって制限されるべきだ」という意味にならないか。「差別だ」「侮辱だ」という言葉は、法律を背景として過剰に作用し、対等な言葉の応酬を破壊することにならないだろうか。

4.

きっこさんの主張への批判のうち、よくわかるものを2つ。まずyoichiro51さんの意見。

食用で屠殺することと、口蹄疫で殺処分することとではそこに従事してる人達の無念さや悲壮さって全く違うものだろ。(後略)

続いていっしょうさんの意見。

親類が宮崎で牛を養っています。出荷にする際になんとも思ってない訳ではありません。感謝の気持ちを持って、でも自分達の生活がある、という複雑な思いで出荷しています。涙ながらに牛を殺したという発言を詭弁だとするあなたには畜産業者に対する想像力がなさすぎる。

私なりに言葉を補って、きっこさんでも納得できそうな整理を試みると、こうなった。

畜産農家も屠畜には抵抗があるが、人々の幸福な生活のための犠牲である、という理由付けによって精神的負担は大いに軽減されている。口蹄疫の拡大防止を目的とする殺処分もまた世のため人のための行為だが、家畜の血も肉もただ埋められて、それ自体は直接には何ら人々の幸福に役立たない。ゆえに、平時の屠畜と比較して、大切に育ててきた家畜を失うことへの納得感に乏しい。このとき、相対的に「死にゆく家畜がかわいそうで仕方ない」という気持ちが前面に出てくるのは、自然なことだ。これは矛盾でも詭弁でもない。なお、家畜を肥育してきた苦労が水泡に帰す無念、生活の基盤を失う悲壮さについては、双方とも基本的に認めていて、とくに争点となっていないので略す。

つまり、家畜の死への抵抗感はもともと存在していたのであって、殺処分だから「かわいそう」、ふつうの屠畜なら「とくに何とも思わない」、というわけではない、と。これはよくわかる。

小学校で、私は「美化委員」を務めたことがある。美化委員の主な仕事は花壇の管理だった。ある日、私は花の終ったチューリップを引っこ抜いて次の花を植えることを指示された。私は、拒否した。「それでは花が咲いた意味がない」と先生に訴えた。ちゃんと種を取って、来年また植えたらいいではないか、子育て中の植物を醜いと判断して、ただそれだけの理由で殺してしまってよいのか、それは母親を大切にしなさいという教えと矛盾しないか、自分が美醜だけで判断されたら怒るくせに、人間はあまりに身勝手ではないか。

先生は、私の意見をじっくり聞いてくれたが、「隆夫くんの意見は、よくわかりました。でも、仕事として、花壇に花を絶やさないようにしてください。花を楽しみにしている人はたくさんいます」という。自分がやらなければ、他の人がやるだけのことだ。ならば、その命を絶つときに痛みを感じる私がやった方がいい、そう思った。

はじめのうちは嫌々やっていたことだったが、植物が立派に育って花壇に花が咲き乱れると、とても嬉しかった。こんなものは、人間以外の命を全く単なる道具として扱う、人の身勝手の象徴だとは思ったけれども、それでも感動していた。いつの間にか、私はせっせと花壇の手入れをするようになった。

ところが、秋になると、駐車場の端に作られた水はけの悪い花壇で、ケイトウが枯れてしまった。秋の長雨に対して、私が不注意だったせいだ。枯れたケイトウを抜いて植え替えたときは、本当に悲しくて悲しくて仕方なかった。

「あと1ヶ月はきれいに咲いていられたはずなのに」と思うと、最初にチューリップを抜いたときの重さが、すっかり蘇った。「10月下旬まで咲き続けてほしい」なんて、ケイトウに対して人間が一方的に与えたミッションだということは、重々承知していた。ケイトウは人間のために花を咲かせたんじゃない。それをわかっていながら、私は、花が終ったらケイトウを引っこ抜いて捨てることにしていた。

それでも、その人間の勝手をきちんと通すことができず、任務途中でケイトウを死なせたとき、私は打ちのめされた。作業に慣れていくうち、私が次第に鈍感になっていったことは事実だ。しかし私は、植物の命を奪うことについて、何とも感じない人間に変わってはいなかった。感情に蓋をする言い訳を失ったとき、痛みと悲しみは再びドッと噴き出してきたのだった。

5.

スーパーの店内掲示などで、牛や豚のキャラクターが「**産の肉はおいしいよ!」とか笑顔でアピールしているものを時々見かけるけれども、個人的には違和感がある。人間に食べられたくて太った家畜はいないと思う。牛乳や鶏卵だって、家畜が人間のために生み出したものではないだろう。

だからといって鶏に感情移入して怒るというのもおかしい。私が一時期、観察した限りでは、鶏は卵を人間に取られたことを認識できていないか、日々忘れていっているように見える。餌さえもらえれば、喜ぶ感じだ。鶏は怒っていない。卵を取ることに胸の痛みを感じるのは、自分の問題であって、じつは鶏は関係ない。

まだ若い実を奪われるイチゴも、当然、何も考えていない。イチゴは悲しまないし、怒りもしない。逆に、イチゴは人間のために実をつけているのでもない。ただ、生きている。

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