番組は見ていないが、このまとめは面白かった。
ところでみなさんは、家族や友人の心を弄ばれたあげく見せかけの「正論」で罵倒されても、堪忍袋の緒が切れませんか。本作品のやりとりは、前考察をふまえて整理すると、次のような対応関係となっています。
正論-反論部分 侮蔑・責任回避-義憤部分 敵幹部 A:犠牲者の心は弱く、苦悩や努力に意味はない C:(1)(だから心を弄ばれてデザトリアンの素材になるのは、犠牲者自身に全責任がある。)
(2)(デザトリアンとして無能なのも、犠牲者自身の弱さのせいである。)プリキュア B:犠牲者の心は尊く、苦悩や努力に意味はある D:(1)(犠牲者の尊い心を弄び操作している責任主体は砂漠の使徒である。)
(2)他者の心を操作することは、そもそも許されない。
(3)純粋な心ゆえの苦悩につけこむことも、もちろん許されない。AとBの対決にばかり視聴者の関心は向きがちですが、じつはAはCを正当化するための言い訳です。プリキュアは、敵幹部のAをBで批判しつつ、Aに隠されたCをあの決め台詞によって、つまりDとその前置き「~するなんて」によって糾弾するのです。
あんよさんの主張そのものに異論はない。敵幹部は擁護し難い。プリキュアの脚本は、そのように書かれている。
それでも、直感的にA思考とB思考の対立に目が向く人がいるのは、やはり自然なことだと思う。それは「現実の世界では、A思考を裏付ける体験がかなり多く、B思考はしばしば空理空論のように感じられる」という人が、少なからず存在するからだ。以降、私はプリキュアを知らないので、自分の関心に引き寄せて書く。
「友だち付き合いなんか面倒くさい」「クラスで協力して何かをやるのが嫌だ」「愛だの恋だの、そんなの、あなたの勝手でしょ。こっちが受け止める義理なんかない」みたいな考え方に対して、「本当はそうは思っていないはずだ」論法でひっくり返すのが、もうちょっとリアルに寄せた作品の定番展開。
私はそういうのにいちいちムカついてきた。脚本家はちゃんと、何らかのイベントなり何なりで自分の中にあった「本当の気持ち」を認識して考えを改める、という手順を踏む。けれども、根本的なところを見誤っていると思うのだ。
人はアンビバレントな感情を抱えているもの。友だち付き合いにだって、いいところはある。あるけど、面倒の方が勝つ。だから嫌なんだ。こんな単純な話を、なぜ理解しない。みんなで何かをやれば、そりゃ達成感とか喜びとか、あるよ。それは否定しない。だけど、自分にとって、それは労力や苦痛に見合う報酬ではない。世の中にはいろいろな人がいていいだろう。なぜ、そういう個性を認めないんだ?
ドラマや映画で「1%でも可能性があれば」というとき、その後、6割くらい成功していると思う。本当に6割も成功するなら、そんなに悩むことはないはずだ。成功率が1%なら、99%の物語で「やっぱりダメでした」を描かなくちゃ嘘だろう。同様に、プリキュアの世界ではA思考はたいてい不幸をもたらし、B思考に目覚めることでほぼ確実に幸福になる。こんな嘘っぱちは認められない。本当にそうなら誰も苦労しないじゃないか。
だから、一方に不当に肩入れした不誠実なプリキュアの脚本そのものは脇において、A思考とB思考の対立、すなわち現実を生きる自分たちにとって真に重要な問題を語りたいと思うのは、自然なことではないだろうか。
「こころの花」なんか枯らしてしまった方が人生平和に過ごせる人もいるだろう。理想を取り下げ、苦しい努力などせず、現状に満足する。いいじゃん、それで。あんよさんの各話解説を読む限り、プリキュアに救われる登場人物たちの悩みはたいてい、理想を掲げ、それが実現できないことに端を発している。その理想は社会が個人を洗脳して押し付けた幻想だ。なので頭を切り替えて現状を丸ごと肯定すれば、悩みは雲散霧消する。人は社会を発展させる道具か? 違う、といえるなら、人には向上心を捨てる自由があるはずだ。その自由を攻撃し抑圧する社会こそ真の悪だ。こう考えるなら、「真のA思考」は、敵幹部を否定するはずである。
だから「プリキュアの物語を仔細に検討する限り、どう考えても敵幹部はダメですよね」といっても、議論の枠組みが違うのではないか。ようするに、敵幹部のA思考を擁護する側というのは、敵幹部を擁護したいんじゃない。悪行三昧と矛盾を抱えた敵幹部と一緒に、A思考まで葬り去られるのが許せないんじゃないか。
あんよさんは、敵幹部が「ちっちゃな悩み」と決め付けることを問題視する。けれども、悩みの大小はたしかにモノの見方に依存しているのだ。ある悩みを重視するか軽視するかは、客観的に定まってはいない。ならば、「どちらが自分の幸福に資するか」という観点から、悩みの評価を自由に選択できる方がいい。
理想と現実のギャップが悩みの原因なので、1)現実を理想に近づける、2)理想を取り下げる、どちらの方法でも悩みは解消できる。プリキュアは方法1)を支持し、敵幹部は方法2)を訴えている。私の実感では、より確実なのは2)の敵幹部思考であり、1)のプリキュア思考は基本的に挫折へと通じている。
しかし敵幹部は本来、人間の悩みが大きく深いほど利益を得られるという。ならば敵幹部はプリキュア思考を主張すべきだ。この敵幹部の思想と利益構造の不整合は「多数派の視聴者にカタルシスを与えねばならない」というエンターテインメントの制約に起因するのではないか。
商業フィクションの世界では、プリキュア思考を貫徹することで非常に高い確率で悩みが解消されてしまう。高校野球マンガの甲子園出場率は異常。頑張り続けると良い結果が出てしまうので、「理想を捨てきれないまま努力を停止する」という微妙なバランスを実現しなければならない。よって作中世界では敵幹部の思想と利益構造は矛盾していない(のかもしれない)。
脚本家の構築した舞台に乗って思想の対立を論じても、胸のもやもやは消えない。作中世界においては、なるほどプリキュアは正しい。そうとしかいいようがない。それですむ話なら、とっくに議論は決着しているだろう。