趣味Web 小説 2010-10-10

「新しい方法」の教え方

1.

小学校四年生の第二子、なんか
算数の位どりについてかなり混乱しているらしいことが発覚。
しょーがんないのでニワカ先生やったところ
・新しい方法を学ぶ必要性が認識できない
らしく、古いやり方で出来るものについて、より効率のよい新しい方法を学ぼうとしてくれない。
しまいには
「勉強なんてできなくてもいい」
とか叫び出す始末。

だからドラクエに譬えて説教してみたのだという。そのお説教はText Analyzerによると1625字なので、せいぜい5分間程度のもの。大した長さではない。「選択肢は多い方がよい」という話も、一般論としては納得できる。

でも、私は感心しない。ネコタさんは特別な人であり、お説教に説得力があるのかもしれない。だがふつうの人は、こんな説教をしても憎まれるだけだろう。

2.

新しいやり方を学ぶのは、ふつう、面倒なこと。そして多くの人にとって、面倒なことをするのはつらい。大人でも子どもでも、それは変わらない。

だから実際、「新しいやり方を学ぶかどうかは自由です」と選択を任されている領域では、たいていの場合、従来のやり方を維持して、勉強をしない。多少の問題が起きても、運用の努力や、従来の方法の延長線上にある改良策でしのごうとする。「もう無理じゃないか」「別の道を探るべきだ」と忠告されても、「お説ごもっとも」といいつつ、なかなかそのようにはしない。とうとう破滅してさえ、「原点に返る」とかいって、やり方を変えないまま再出発することも珍しくない。

お説教を無意味とはいわないが、それで説得できるなら、みんなもっと幸せになっているだろう。小学生は自分の興味と無関係に勉強を押し付けられている。大人は自分の興味関心や利害に関係する領域でだけ勉強すればいいのだから、大人の方がずっと条件は楽なのだ。なのに勉強できずにいる。

3.

多くの子どもは、別に算数そのものに興味は持っていない。その証拠に、学校を卒業しても算数に関心を持って勉強を続けている人なんか、滅多にいない。それでも、小学生は毎日学校へ通って授業を受け、家に帰っても宿題などに取り組み、さらに塾へも通ったりする。少なからぬ大人より、よほどまじめだ。

子どもの向学心を支えているのは何だろう? 生活の不便から算数の必要性を理解しているのか? それは違うだろうな。分数の割り算どころか少数の割り算さえできなかったり、距離と速さと時間の関係も理解できていなかったりする大人は世の中にたくさんいるが、その大半は算数の勉強に背を向けている。

小学生が勉強するのは、「それが仕事(=生活の糧を得る代償として家族や社会が求めるもの)だから」「勉強ができない惨めさから脱出したい」といった動機が大きいように思う。「勉強しない」ことが許されない以上、勉強するしかない。そうした状況で自尊心を保つには、勉強が苦手なままではつらい。だから、勉強ができるようになりたい。

そんな後ろ向きの動機ではいけない、と思って大人たちは言葉を尽くす。だが大人たちは自らその言葉を裏切って生きている。小学生の頃、私は許せなかった。何が「知る喜び」だ。あなた方は何年生きてきた? もし本当に「知る喜び」がそんなに素晴らしいものなら、小学校の教科書に書かれていることくらい、全部知っていてもいいだろうと思った。なのに知らない。花の名前も、地名も、ことわざもだ。こんなのが学校の教師をやっているのか。舌先三寸で世渡りする詐欺師ども! 憤り、そして悲しくなった。

学生時代、アルバイト先の補習塾には、勉強しないことで説教をされ続けてきた子どもたちが集まっていた。彼らの、大人たちへの憎悪に、私は胸を打たれた。プレゼントを相手が喜ばないのを見て、「もっと前向きに考えなきゃ。これは君の役に立つものなんだよ」とか何とか。いい加減にしろ、と思わないか。

そんなにいいものなら、あんたが使えばいい。辞書とか、百科事典とか。なのに使わない。自分でも信じていないことを、なぜ真顔で他人に語ることができるのだ。相手が子どもだというだけで、どうして。

4.

……本題に戻す。お説教以外に、どんな指導法があるか。

使い慣れたやり方を離れるのは、きわめてコストが高い。新しいやり方に多少の利益があっても、それでは努力に見合わない。だからお馴染みの方法に固執する。そういうもの。だから、次のいずれかを選択する。

  1. ギブアップするまで古い方法で突き進んでもらう。
  2. 問答無用で新しい方法を指定し、慣れてもらう。

時間があれば前者、ないなら後者の方法が定石。なお後者の方法は学習者に大きなストレスがかかるため、工夫すべき。家庭学習なら個別指導になるので、定番の方法は、指導者と学習者が一緒に手を動かすこと。

他に「学校へ行かず、勉強もしない」という選択肢もある。子どもたちは夢を見続け、繰り返しこの選択肢を掲げる。だが、よほどの事情がない限り、認められまい。ならば、(それなりの確率で)憎まれることを甘受するか、ともに苦難の道を歩むしかないのではないか。

5.

ついでに書くが、「生きるために必要な力」云々が建前でないのなら、勉強ができないまま子どもを卒業させてしまう無責任は、いったい何なのだ。

あと、虚飾を剥いだ後に「学ぶこと、それ自体の面白さ」が残ることは否定しない。が、たいていの場合、それは重い腰を上げさせる力を持ってはいまい。「腹を割って話す」の思い出(2007-03-10)や教える理由(2007-04-04)で書いたのは、否応なく勉強しなければならない状況下で、最後の希望となりうるのは……という文脈での話。絶望せず塾へ通い続けた彼らが、いまも国語や英語の勉強を続けているとは思ってない。

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