趣味Web 小説 2011-02-17

現物支給の論理

生活保護の先行きは暗い(2011-02-16)の補足記事。

1.

「生活保護を現物支給にしたい」という意見が、なぜ出てくるのか。

「死ね」とネットに書いても、本当に殺したいわけではない。税金を払っている側として、「羨ましいところはひとつもない」状態になれば納得できるのだ。しかし単純に公的扶助の金額を絞ると、死んでしまう。そこで「俺様のいうことを聞け」「自由を制限させてもらう」という発想に行き着く。

一体どこからそういうアイデアが出てくるのか……と思ったが、何人かと話してみたら、みな「親と子」のアナロジーで考えているんだな。私の両親はそういうことをいわなかったので失念していたが、多くの親御さんは、親と子を対等な人格と考えていない。その究極的な理由は「子は親なしで生きられないから」というものだった。親は繰り返し、このロジックを子に吹き込む。ときには、実際に食事を抜いたり、子が大切にしているものを捨てたりして、親の全能と子の無力が事実であることを印象付けようとする。

2.

いま生活保護の現物支給を支持する人は、生活保護の受給者が自由に振舞って、納税者たる自分たちの意に反することをするのが、許せないのだという。

一般人がパチンコをするのはいい。だが生活保護受給者はダメだ。刺身を食べてはいけない。牛肉もダメだ。外食なんてもってのほか。子どもに携帯電話を持たせる必要はない。クーラーなんて贅沢だ。せめて設定温度をギリギリまで高くしろ。なんで家中に物があふれているんだ。無駄な雑貨は買うな。地デジ対応テレビなど要らないだろう。5000円のチューナーで十分じゃないか。

要約すれば、こんな感じ。じつに細かいことまでグチグチと批判の的にする。親が子のやることなすこと批評し、自らの価値観を押し付けてよいのは、子が親に生かされている存在だからだ。ならば納税者たる自分には、公費で支えている家庭に対して何から何まで口を出し、価値観を押し付ける権力があって然るべきだ、と。なのに実際には、生活保護受給者には自分と大差ない自由が与えられており、自分を苛立たせるようなことをたくさんやっている。それが我慢ならない……。

一通りご意見を伺ったので、私の方も訥々と持論を語った。うまく話せなかったが、概要はこうだ。

3.

本当にみなが望むなら、しょせん多数決の世の中だから、いずれ生活保護は現物支給になるのだろう。食事も生活必需品も配給制(あるいは指定された商店の非贅沢品しか買えないプリペイドカード)になって、現金は1円も渡さない、というような。

そのうち、居住の自由もなくなる。貧しい人はルームシェアをなさい、海外では老人や親子連れがルームシェアをやっているなんて、ビックリするほど珍しくもないよ、と。全寮制の学校を卒業した知人は数人いるが、個室住まいだったという話は聞いたことがない。病院も薄いカーテンだけで仕切って、8畳間に4つくらいベッドを入れている。予算の制約は、プライバシー権より強い。

あるいは、もはや再就労は望めない高齢者が都会で生活保護を申請すると、遠く離れた田舎のアパートに住まわされたり。公営住宅にかけられる予算が増えないまま、年金を払ってこなかった老人を中心として生活保護対象者が急増していくなら、こうした施策が必要になる日がくるかもしれない。

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