私は被乗数と乗数を区別し、被乗数×乗数の順序で記述するルールに積極的な存在意義を認めますが、他方で1皿あたりのりんごの個数だけを「1あたり量」とみなして被乗数とする指導には否定的です。その直感的な理由は、5×3=15の状況は15÷3=5とも15÷5=3とも表現できて、5と3を区別するのはナンセンスと感じるからです。「1あたり量」と「いくつ分」に本質的な違いはない。どちらもモノの見方しだいで「1あたり量」だとも「いくつ分」だとも考えられます。→5×3を推す(2010-12-21)
体験的には、私が小学生のとき、先生が語感にこだわって「1あたり量」の指導をした結果、「掛け算と割り算の相互変換問題」でクラスメートが悲惨な正答率を記録したことが背景にあります。もうひとつ例を挙げれば、後に学ぶ長方形の面積を求める単元において、あるクラスメートが「たて」が「1あたり量」で「よこ」が「いくつ分」だと理解し、それゆえに立式で行き詰る場面に出くわしたときの気持ちも忘れられない。
彼女は、斜めに印刷された長方形の絵を見て、どちらの辺が「たて」なのかわからず、涙目になっていました。私は哀しみを覚え、そして深い怒りに襲われ「無能な教師は今すぐ辞表を書くべきだ」と思ったけれど、実際にしたことはといえば「どちらでもいいんだ。先生は、今では、たてとよこのどちらを先に書いてもマルをくれるんだ。以前とはいってることもやってることも違うのだけれど、先生ってのは、そういうものなんだ。先生がかつて話したことは、適当に忘れて生きていくしかないんだ」と説明することだけでした。
では私が被乗数と乗数をどう区別しているのかといえば、「先に(仮に)定めた数字を被乗数、後から定めた数字を乗数とする」という、いささかアバウトなものです。
まず皿が5枚あることを数え上げて、次に1枚の皿にりんごが3個あることを数え、そして、各お皿の上にあるりんごの個数が等しいことはパッと見て視覚的に判断できたとすれば、式は5×3でいいじゃないか、というのが私の発想。まず皿が5枚あることを確定したのだから、被乗数は5でよい。逆に、もし先に1皿あたりのりんごの個数を数えたなら被乗数は3で、式は3×5となります。この区別は文章読解の問題となります。
私自身、『5×3を推す』ではトランプ配りを想定した例示をしているのだけれど、本当は、そんなこと考えていない。最初から3行5列の行列に相当するイメージがパッと頭に浮かぶわけ。これは行列そのものじゃなく抽象的なイメージなので、掛け合わせる数がどんどん増えても全く苦になりません。他人に説明する場合には言葉を介す必要があるから仕方なく行列に例えるのだけれど……ともかく、行を先に数えても、列を先に数えても、どっちでもいいでしょ、と。
だから皿の枚数を先に数えても、1皿あたりのりんごの個数を先に数えても、どちらでもいい。ともかくわかった順番にメモして、九九を使って掛け算すれば、全部のりんごの数はわかる。そうした直感的な状況のイメージがあるわけです。
私はこのように考えるので、「1あたり量」を被乗数とするのが本来の形だが交換法則を考慮すれば「いくつ分」を被乗数としてもよい、という主張には与しません。交換法則は計算の道具であって、立式において考慮することではないはずです。「5×3」がより自然だと思うのは、文章を素直に数式に落とし込めば「5×3」になるから。むしろ「3×5」の方が不自然です。
「5枚のお皿に3個ずつりんごをのせると、皿の上のりんごは全部で15個になります」といった文章を、「15個のりんごを5枚の皿にのせると、りんごは1皿あたり3個になります」「15個のりんごを3個ずつ皿にのせると、必要な皿は5枚になります」という2つの文章に書き換える問題、あるいはその逆。
割り算的状況を掛け算的状況に書き直す問題はみなまずまず正答していたと思いますが、ひとつの掛け算的状況から2つの割り算的状況を導く方は壊滅的でした。
その原因は、私はやはり、掛け算的状況の文章について、「1あたり量」にこだわって3×5=15しかありえないと指導したからじゃないかと思う。掛け算なら式は1種類なのに、割り算になったとたんに15÷5=3と15÷3=5の2種類の式がある、というから混乱するのではないでしょうか。
掛け合わせる数字のうち、最初に確定したものを被乗数、2番目以降に確定したものを乗数とする、というシンプルな発想なら、割り算で難しいのは「何を割るのか」を見定めることだけ。後は、先に確定した数字で割ると未確定の数字が判明する、というように、こちらもシンプルな話になります。