takehikomさんは3×5≠5×3問題について多くの記事を書かれていまして、圧倒されます。私はもう、個人的に関心を持ち、ものをいいたくなった部分については書いてしまったので、とくに追加したい内容はありません。今回は、もっとくだらない話を少し書こうと思います。
いまあらためてウェブに残った大勢の放言の残骸を読み漁ってみて、まず第一にムカムカしてくるのはやはり、学習指導要領解説を全く読めていない人が多いこと。検索してみると、自説に都合のいいように学習指導要領解説を読み、いい加減な援用をして勝ち誇る人が延々と出てきます。
別にそれは議論の最重点ではない。3×5≠5×3問題について、いわゆる「非順序派」は、学習指導要領解説が味方ではないとわかれば、手のひらを返して学習指導要領解説を攻撃するに決まっています。本当は権威など重要ではなく、自分の直感が満足するかどうかだけが問題なのです。
だから私を含む多くの論者は、takehikomさんが希望するような、過去の算数教育研究の積み重ねを踏まえた議論などするつもりはないし、まとめサイトも作らないし、本も読まない。そういうことをする必要性を全く感じない。だって、それで少しも困っていないから。面倒なことをする動機付けを欠いています。自説の正しさには直感的な確信があり、間違っているというなら説得してみせろ、という気分でいるのです。
偉い先生のいうことだろうと歴史のある議論だろうと、いま俺を納得させられない議論は信用しない、という気分は、少なくとも私が物心ついて以降はずっと、社会に蔓延し続けているように思います。学校でも「先生のいうことを鵜呑みにするな」「迷ったら自分を信じろ」と教えられてきましたし。
それでも権威付けの習慣が消えないのはなぜか。それは、自分の立場を決めかねている層には「権威が効く」ように思われるからでしょう。
実際、私自身の行動を注意深く観察してみるに、直感的に「響く」ものがない話題については、権威付けの上手な主張を「とりあえず選択」しているようです。逆に、直感的に「これが正しい」と判断した場合は、自説とぶつかる権威の方を、不遜を不遜とも思わず疑っています。おそらく、多くの人が私と似た判断フローを持っているのだと思います。そうだとすれば、自分は信じてもいない権威を援用して自説を補強するのは、矛盾した行動だとはいえません。
多くの人はしょせん自分の「常識」感覚に寄りかかった議論をしているに過ぎないから、自分が所属している(と思っている)クラスタにおいて、多数派の側に立てるかどうかは(精神的安定のために)重要です。Twitterやはてブやコメント欄でお手軽に意見表明する程度の層を少しでも取り込むための手段として、学習指導要領解説が役に立つなら援用するということでしょう。
ともあれ、私は、3×5≠5×3問題そのものよりも、学習指導要領解説をきちんと読めない国語力の低さのほうに興味を引かれました。『立式の論理と計算の便宜』は、まさにそうした私の問題意識を反映した記事です。この記事を読んだところで「結論」は変わらないでしょうが、学習指導要領解説の読み違えをしていた人は、その部分について、各自の記事を訂正すべきだと思う。
続く『5×3を推す』も、私が書いているのは国語の話。takehikomさんがまとめた論点の中では、まったく傍流に位置します。