趣味Web 小説 2011-06-15

数十年越しの異議申し立て (3×5≠5×3問題)

さらが5まいあります。1さらにりんごが3こずつのっています。りんごはぜんぶで何こあるでしょう。

1.

算数以外では、漢字の指導について、「バッカじゃないの」という反応がウェブでは目立つと思う。

「先生も間違うことは多いし、先生の示した正解が唯一のものだとも限らない」と小学校の先生は何度も説いたけれども、実際に反論してみると、全く埒が明かないのでした。相手が子どもだと思ってバカにしているのか、壊れたレコードのように同じ説明を繰り返すだけ。先生の言い分はよくわかったから、先生もこちらの言い分をまじめに聞いて、理解して、その上で私が納得するような説明をしてほしいといっているのに、「俺の説明を理解すれば黙るはずだ」と思っているらしい。

こちらの土俵に乗らないなら乗らないでもいい。でも、その理由は説明してほしいじゃない。ところがサッパリなんだ。どもりのひどい私の話を聞くのは骨が折れただろうけど、それほど複雑な話ではなかったはずです。「話の通じないバカ教師は今すぐクビになればいいのに」と何度思ったことか。

教師が天下り式に指導したって結果が素晴らしければ「そういうものか」と力づくで納得もさせられるけれど、年度末に行われる実力テストのクラス平均点は、どうもパッとしない。ムカつきましたね。

2.

3×5≠5×3問題とか、漢字の些細な字形に固執した採点基準などへの「バッカじゃないの」という反応は、かつて小学生だった人々の、数十年越しの異議申し立てなんじゃないかと思う。20数年前の私が、現在と全く同様に自説を主張できたわけはない。しかし、直感的な「先生それおかしくない?」という疑問や、イメージレベルでの問題の捉え方は、少なくとも私の場合、当時も今も変わりない。

小学2年生の頃から、私は「皿が5枚あります」と最初に書いてあるのだから、5×3が正しいに決まってるだろ、と思ってきたわけです。どうして足し算のときのように文章通りに立式させないのか? 「□の式」などが登場したときには、「ざまあ見ろ」と思いました。それは私が自然とやってきたことの追認でしかなかったのに、対症療法を膨大に詰め込まれてきたクラスメートは軒並み壁にぶち当たりました。私も、中学で連立方程式を学んだときには「鶴亀算って何だったんだ……」と脱力したわけですけど。

注:昨日の記事に引き付けて書けば、私は小学生の間はとうとう鶴亀算の「イメージ」を形成できなかったのです。だから直感的に正答への道筋が「見える」には至らず、先生のガイダンスを思い起こして順々に考えていかねば、答えを得られなかったのでした。で、中学時代に小学校のドリルを引っ張り出してきて鶴亀算や並木算の問題を集中的に解き直してみたら、天啓がひらめいて、「なんで今の今までこんな簡単なことがわからなかったんだ」と、再び愕然としました。「イメージ」というのは、突如として頭の中に出現するものです。

3.

実際に『5×3を推す』指導法で教室が混乱しないのかどうかはわからないし、ハッキリいってしまえば、知ったことではない。かつて3×5を強制されたことに、私は未だに怒っていたんですね。記事を書いてみて、私はそのことに気付かされました。恨みつらみを文章にしたのです。

自分で新しい教育プログラムを作ってみたって、きっとうまくいかない。そういう予感はあります。かつての優等生たちは雄弁かもしれませんが、実際に例えば自分の子どもにうまく掛け算の「イメージ」を伝えられるかといえば、なかなか難しいだろうと思う。

算数教育の研究には長い歴史があり、そこそこ実証的に試行錯誤してきた経緯があって、現在のような指導手順が存在しているわけです。算数の教え方指南の本を図書館で濫読しましたが、ある段階においては、冒頭に引用したような問題において3×5という立式を実質的に強制するのが、「ふつうの公立学校で実際に可能な授業のやり方としてはベスト」ということで概ねコンセンサスが得られているようなのです。「多くの子どもが躓いた段差を、どうにかして緩やかな坂道に作り変えよう」という試みが営々と続けられてきた、その結晶が、現在の指導手順です。

だけど、今も日本のどこかで、そういう授業に「バッカじゃないの」と思いながらも先生の都合に合わせて3×5という式を書いてマルをもらってる小学生がいて、ずーっと教師をバカにし続けて大人になっていく。そして数十年後に、何かのきっかけでプッツンきて大騒ぎすることになるのだと思う。

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